書評コーナー

第52回 2018.12.17

律令制と日本古代国家
発行元: 同成社 2018/10 刊行

評者:神戸航介 (東京大学大学院人文社会系研究科研究員)

律令制と日本古代国家

著書:小口 雅史 編

発行元: 同成社

出版日:2018/10

価格:¥8,250(税込)

目次

序―解題にかえて―(小口雅史)

第I部 日本古代の王権と外交
 “東夷の小帝国”論と「任那」問題(熊谷公男)
 古代王権と遺詔(稲田奈津子)
 天皇制を考える(大山誠一)
 延暦度遣唐使三題(森 公章)
 一世源氏元服に関する試論(江渡俊裕)
 皇子女の五十日・百日の祝について(新井重行)

第II部 律令田制をめぐって
 班田制と律令法(三谷芳幸)
 田令田長条に関する覚え書き(佐々田悠)
 大宝田令六年一班条と初期班田制(北村安裕)
 田令集解従便近条の考察(森田 悌)

第III部 律令制下の官僚制と地方
 古代東国における七世紀後半から八世紀初頭における交易体制(原 京子)
 文書の授受からみた天平五・六年における出雲国司の活動(鐘江宏之)
 弘仁六年給季禄儀における式兵両省相論をめぐって(虎尾達哉)
 平安時代中期の位禄制の評価をめぐる覚書(山下信一郎)

第IV部 唐制と日本
 唐医疾令断簡(大谷三三一七)の発見と日本医疾令(丸山裕美子)
 文苑英華の判の背景となる唐令について(坂上康俊)

 本書は編者である小口雅史氏の還暦を記念し編まれた論文集である。大家から若手まで小口氏を慕う広範な研究者が論考を寄せているため、内容は多岐にわたっている。いずれも重厚な力作であり通読するにはかなりのエネルギーを要するが、重要な論考が多くきわめて有意義である。以下、内容を紹介していこう。なお、行論の都合上、本書所収の順序と紹介の順が異なる場合があることをお断りしておきたい。本書所収の順序は(1)〜(16)の番号で示す。

 第I部「日本古代の王権と外交」では、古代の外交・王権にかかわる諸論考を収めている。まずは対外関係史について触れたいが、評者は門外漢であるため、ごく簡単な紹介にとどめたい。まず(1)熊谷公男「“東夷の小帝国”論と「任那」問題」は、石母田正氏の“東夷の小帝国”論を、支配者層の国際意識というレベルで再評価すべきと主張。そのために任那問題を検討する。4〜5世紀の倭国の対外政策は帝国主義的理念に基づくもので、これを任那との特殊な関係が支えていたとし、そのため任那滅亡後も朝鮮半島南部を「任那」と呼ぶ用例が史料上見えるのだと説明する。
 (4)森公章「延暦度遣唐使三題」は、延暦度の遣唐使派遣の歴史的位置づけを行なう。餞別の宴から渡航、帰国までの史料を網羅的に分析し、遣唐使の目的に唐物獲得という要素が強まった時期であること、第四船の引率者判官高階遠成に対する唐側の国賓としての接遇や、彼に関する諸史料の読み方など著者の見解を開示する。さらに宝亀度から続く漂着の可能性に対応した遣新羅使の派遣、天皇の唐風化に対応した礼楽受容を目指した活動などの位置づけを与えている。
 天皇制・王権論にかかわる論考では、まず(3)大山誠一「天皇制を考える」は、天皇を掌握した人物が政治権力を有するという政治システムを天皇制ととらえ、天皇制に対する著者独自の理解を開示する。大宝令における天皇制は、権力の実質は太政官にあり、天皇は疎外されている。この点は専制的な権力を確立した唐の皇帝と異なる特徴であり、世界史的に見ると異質なあり方だった。その天皇を藤原氏が外戚関係をもとに掌握し、潜在的な天皇の権限を顕在化することで権力をふるった。こうしたあり方の到達点が摂関政治である。さらに政治権力と異なる価値として神話による神格化を天皇制の特徴としてあげ、以上の要素をもつ天皇制は天武十年を起点として藤原不比等によって構想されたとする。さらに天武十年の歴史書編纂の目的を、蘇我王家から息長王家への王朝交代に伴う王家の正統化であると主張し、天皇神格化のため不比等により記紀神話が構想されたという。
 一方、中堅・若手研究者によって、儀式構造から王権の特徴を考察するという実証的な論考も3本収録されている。(5)江渡俊裕「一世源氏元服に関する試論」は、元服儀の分析から一世源氏の身分的位置づけを解明しようとするもの。一世源氏元服儀は親王の元服儀と儀式構造が一致する点が多く、両者は皇子としての性質を同一視されていたと主張する。新儀式・西宮記における両元服儀の次第を比較すると、会場が清涼殿である点で共通し、天皇の私的儀礼としての性格がうかがえるが、加冠人の着座順(江渡氏は「説明順」とする)が異なり、一世源氏元服は加冠人が本人より前、親王は加冠人が後になり、また座の位置が親王は東廂であるのに対し一世源氏は孫廂と一段後退していて、これを出仕後の臣下としての関係を見据えたものと評価する。その他細かな所作や参加者への饗宴などにも差異が見られ、一世源氏元服儀は親王元服儀を身分差により簡略化したものであることを明らかにした。儀式書編纂過程との関係についてはなお課題を残すようだが、個別の挙行事例を政治史と儀式構造を合わせて解釈することにより、王権構造の理解に新たな見通しを得る可能性が広がった点が重要であろう。ただし、「一世源氏元服に内蔵寮が関与したことで、一世源氏は官人秩序内での位置づけを高めたのではないか」というのはやや過大評価に感じた。内蔵寮からの支出に可視的な表象を認められるか、評者の課題としたい。
 (6)新井重行「皇子女の五十日・百日の祝について」は、皇子女誕生儀礼である五十日・百日の祝の儀式次第を検討したもの。この儀が開始された十世紀後半頃には内々の祝宴であり、五十日・百日どちらかのみ行なえばよく次第も一定していなかったが、一条天皇皇子敦成親王以降五十日・百日両方行なうことが一般化し、皇后所生の皇子は盛大に行なうなど御母の身位によって差が生まれた。さらに参加者も大臣以下公卿にまで拡大するなど公的性格を強め、これは道長が外祖父としての勢力を示すためであったとする。(5)江渡論文と同様、個別事例における儀式の様子を王権構造と関連させる方法論は注目すべきで、有効な手法として今後他の儀式にも拡大していくだろう。
 (2)稲田奈津子「古代王権と遺詔」は、天皇・太上天皇の遺言である遺詔について、喪送・即位儀礼や唐皇帝の遺詔との比較を通じて日本的特質を検討したもの。令制以前の遺詔は恣意的な皇位継承者の指名をせず、群臣への公開もなかった。持統太上天皇の遺詔以降、中国的・律令的喪送に関する要素が導入されるが、奈良時代の不安定な皇位継承により、皇嗣の正統性を得るため後継に言及した遺詔が例外的に群臣の前で公表されることがあった。皇統が安定した平安時代以降、遺詔による正統化が不要となると、太上天皇の遺詔は薄葬を請うために天皇に奏聞されるようになり、律令的葬送儀礼が行なわれなくなった後もそれの辞退の文言が固定的に残り続け、「如在之儀」の成立とともに形式的な儀礼へと変化した。一方唐代の皇帝遺詔は皇嗣決定に強大な影響力を有し、柩前即位の前に必ず官人に宣下されて正統性が示され、さらに天下百姓にも布告されるという、日本と異なる特徴を有していたことを明らかにした。日唐の遺詔の相違が見通しよく整理され有意義であり、これも「儀礼と王権」という(5)・(6)論文と共通する発展性を見出せよう。ただし、遺詔の内容・変遷・唐との相違からうかがえる稲田氏独自の「日本古代王権の一側面」については若干見えにくい。令制以前にも存在した日本の遺詔の本質を「補助的・従属的役割」とのみとらえてよいかという問題があるように思う。

 第II部「律令田制をめぐって」は、小口氏の主要な研究テーマの一つが田制であることが意識され、田令を主題とした論考が4本寄せられている。(7)三谷芳幸「班田制と律令法」は、唐令との比較という視点を前面に押し出し、均田制と班田制の相違を論じている。唐では田令の寛郷・狭郷規定に忠実に則って戸籍に応受田額を記載していることから、応受田額一〇〇畝は絶対的な「理念」として存在していたのに対し、日本では地域ごとの「郷土法」が田令の応受田額と代替可能なものとしてあらかじめ律令法内に前提として組み込まれており、戸籍にもことさらに記載されることがない。したがって日本の田令の応受田額は唐のような理念性が希薄であるとする。この原則が給田方法にも反映され、唐では現実の給田額が地方官庁で決められるのに対し、日本では中央政府の許可が必要となり、唐よりも中央の関与が強くなっているのである。さらに狭郷・寛郷を踏まえた地域別の給田額設定は国単位で行なわれており、両者の概念も唐と異なり日本ではより現実に即したものとして読み替えられている。こうした相違は日本の律令制自体の性格ともつながり、徳に民衆支配に関わる篇目はただちに実施可能な制度として導入されたのだと主張する。
 (8)佐々田悠「田令田長条に関する覚え書き」は、膨大な研究史を有する田令田長条を再検討。古記は田積三〇歩×一二歩=三六〇歩から、二五〇歩に改め、さらに後に三六〇歩に復したという変遷があったことを記すが、この変遷がいつのものかで議論がある。通説はすべて大宝令以後とするが、高麗方六尺・一段二五〇歩は「令前租法」の田積と対応することから、二五〇歩から三六〇歩(高麗方五尺)への改訂は大宝令制への変更に当てはめるべきであり、最初の三六〇歩制は古記が日本書紀の改新詔ないし白雉三年の記事に影響を受けた可能性があると指摘する。また、慶雲三年の田租法改定に関する複雑な研究史を整理し、田積法と田租法が分離した画期であるとの通説を確認している。なお、慶雲三年九月格「令前方六尺升、漸差地実、遂其差升亦差束実」は、門外漢の評者が虚心に読めば、「令前の方六尺によって得られる米一升という単位は、だんだんと実際に収穫される数と差が生じ、ついにはその〈誤差が生じた升〉は束の実態とも乖離してきた」との意味で解釈される。一連の単位の変遷の背後にある社会の変化に目を向ける必要があろう。
 (9)北村安裕「大宝田令六年一班条と初期班田制」は、古くから議論のある田令六年一班条の大宝令復原を、令集解古記の再検討と天聖令との比較により考証したもの。同条は古記からわかる大宝令の字句は「初班」「後年」「班」「三班収授」であり、「班」以外は養老令にないことから、大宝・養老令間で字句の相違が甚だしい。この点を巡って先行研究の復原の長所・短所を整理した上で、解釈に問題のある「後年」について天聖田令唐23の用法を尊重し、「後年」を「次回の班田年」ととらえた。その上で天聖田令の文章構造を参考に、大宝令六年一班条には「如し死すること初班にあらば、後年を計りて始となし、三班に収授するを聴せ」と、口分田を得て六年以内(初班)に死去した者は次々回の班田年に収公するという「初班特例」が存在したと推定する。この前提のもと、初班特例は北魏太和九年制に由来し、最初の班田時の死亡者と幼児の死亡にともなう耕作関係の異動を抑制するために浄御原令で導入され、その後の口分田不足により大宝令で5年以下不給制を導入し、存在意義がなくなった初班特例は養老令で削除されたと跡づけた。天聖令から大宝令が直接復原できないことは近年指摘されている通りであるし、唐令と同一の字句を日本の実態を踏まえて読み替えることはしばしば行なわれることは確かである。しかし「後年」の意味に限って言えば唐令の文脈で解釈しようとする試みは一定の有効性がある。ただし、同条古記の論理では「後年」=「再班」であり、かつ「たとえば、初班に死なば、再班に収むるなり。再班に死なば、三班に収むるなり」とあるのが、初班特例の存在を前提として理解できるか、疑問に感じた。
 (10)森田悌「田令集解従便近条の考察」は、口分田の頒給を受田者の便近の地において行なうことを規定した田令従便近条の集解諸説を詳細に検討したもの。穴記・朱説が述べる受田方式は「以近給近」方式と「以近及遠」方式があるが、後者について「以」に「〜ヨリ」という訓を施すことにより、もっとも近接した土地から順次離れた土地へと班給することと解釈する。これについては、「以」の読みを前者と後者で異なるものにしなければならない点で疑問があるが、意味自体は変わらないだろう。さらにその後の令文「不得隔越」は「務従便近」と重複すると考えがたいことから、後者の令意は郡を越えた受田を認めない点にあったとする。なおこの令文は天聖田令唐22と同文である点も考慮する必要があると思う。日本の実態に合わせ独自の読み替えが行なわれた可能性があるのである。同様に「犬牙相接」の地(郡境の入り組んだ土地)における例外的な他郡への受田規定も、単純に唐令の「州県」を「国郡」に改めただけの可能性もあるが、森田氏が述べるように旧来の慣行を容認したものと見ることもできるかもしれない。この点は集解の解釈だけから実態に迫るのは限界があろう。なお森田氏は最後に本条の実態についても検討を加えていて、遠隔郡で受田した場合は戸口の一部が移住していた可能性を指摘している。
 本書序文によれば、以上の田制関係の諸説に対しては、近日小口氏自らが見解を公表するつもりであるとのことである。早期の実現を期待したい。

 第III部「律令制下の官僚制と地方」は、7世紀〜10世紀までの官僚制・地方支配にかかわる論文が集められた。
 (11)原京子「古代東国における七世紀後半から八世紀初頭における交易体制」は、湖西産須恵器が多く出土する埼玉県築道下遺跡を素材として、東国地域間の交易のあり方を検討したもの。築道下遺跡は大規模な津としての性格をもつ海上交通の要衝であり、交易に関わる地域有力者が掌握し、湖西産須恵器生産地と直接交易活動を行なっていたとする。彼らは貢納奉仕関係を介して中央と結びつきをもち、伊豆大島を中継点とすることで遠隔交易を可能にしていたと指摘。交易権を握った地域有力者の具体的な活動をできる限り解明しようとの試みは注目すべきであろう。
 (12)鐘江宏之「文書の授受からみた天平五・六年における出雲国司の活動」は、出雲国計会帳に見える文書の授受記録から出雲国司の動向を整理したもの。勅符・太政官符を受けた国内調査にかかる日数が国によって異なること、民部省・兵部省とのやりとりは仕丁や衛士などの逃亡者に関するものが多いが、代替者を軍団兵士の中から選定する兵部省関係の方が比較的日数がかからないなどの指摘は興味深い。ただし、全体として計会帳記載内容の注釈的解説にとどまり、踏み込んだ考察がないのは残念である。
 (13)虎尾達哉「弘仁六年給季禄儀における式兵両省相論をめぐって」は、式部省の官司としての特徴を、弘仁六年の式兵二省相論を手がかりに考察したもの。弘仁六年二省相論は、給季禄儀における文武官の列立の指揮について、式部省が独占的に行なった状況を不当として兵部省が太政官に訴申し、太政官は式部省の弁明と明法家の勘申を受け、当初の指示どおり二省に担当させ文武官を混合させるべきでないと裁定した。延暦十一年から弘仁二年までの式部省と弾正台との相論では、新弾例に規定された給季禄儀における弾正台による不参官人の糺察を、式部省が五位以上歴名を提供しないことで妨害する行為が十年に及び行なわれていたと指摘する。これは給季禄儀不参で違勅罪となるのが過重であると認識していたためであり、この式部省の主張が認められ弾例違反である給季禄儀不参は違式罪とすることとなった。こうした事例から式部省は自身の主張を実力行使によって押し通せるほどの自負をもった官司だったと評価する。式部省は実際に人事管理・礼儀監督という職掌に対して絶大な実績と権限を有しており、これを楯に自らを兵部省より上位に位置づけ、実態に合わない制度への批判を次々と太政官に建言し、太政官もそうした行き過ぎた動きを批難することはなかった。こうしたことから、式部省は太政官の単なる一事務部局ではなく、独立性の強い官庁であり、太政官の統制も緩やかだったが、そうした関係は他の七省以下の諸官司にも共通する可能性があることを述べている。
 (14)山下信一郎「平安時代中期の位禄制の評価をめぐる覚書」は、10世紀の歴史的位置を考える上で重要な論点である位禄制の実態について検討したもの。まず出雲国正税返却帳の位禄勘出記事を整理し、勘出記事が残る延長六年(928)から長保四年(1002)の期間は逆に官符通りの位禄支給も存在していた可能性をうかがわせること、位禄割り当て額は国ごとに基準額が存在していたこと、殿上分・禁国分以外の四位・五位層の位禄が出雲国に割り当てられた実例があることを指摘する。その上で儀式書による位禄定の次第を再検討し、原則的には国ごとの基準額の上限まで、すべての位禄受給対象者に割り当てることが可能な仕組みであったこと、「分」は年給と同様の制度として10世紀前半にはすでに成立しており、これが位禄定のあり方を限定的なものに変質させたわけではないことを指摘した。すなわち、位禄定は平安中期を通じて、四位・五位層全体を包括する形式であり、10世紀後半以降もそれなりに機能していたと評価する。10世紀以降の位禄については評者も検討したことがある(拙稿「摂関期の財政制度と文書」大津透編『摂関期の国家と社会』山川出版社、2016年)が、そこでは受領に位禄出給を命じる位禄官符が位禄受給者本人に与えられること、位禄官符の効力を民部省勘会や改国・改年によって保証していたことなどを明らかにした。この点で当該期の位禄には一定の有効性があり、中央の求心性も求められるという点で山下氏の見解には首肯できる。正税返却帳の勘出記載が位禄官符の有効性を示すものであること、位禄目録が君恩を象徴し、当初から一貫して制度としてすべての四位五位層を包摂するものであったことは支持できよう。ただし、問題は「実態として」どの程度の人間が位禄の恩恵にあずかることができたか、である。「制度としては」という留保がつく限り、吉川説の根本的な批判にはなりえないように思うのである。私見では、実質的には「分」を持つ者に奉仕することで位禄を得ていた者が多く、これを外国出給制度によって保証していた点に摂関期国家の求心性があるのだと理解している。

 第IV部「唐制と日本」では、日唐律令比較研究を進める上で重要な史料に関する論考が収められている。(15)丸山裕美子「唐医疾令断簡(大谷三三一七)の発見と日本医疾令」は、2017年に龍谷大学所蔵大谷三三一七号文書が唐医疾令断簡であることが確認されたことを受けて、天聖医疾令と対照させつつ条文とその排列の復原を考証したものである。『天聖令校證』では宋10→唐14→宋11の順に排列していたが、本文書によれば宋10→宋11の順であったことが確実になる。この前提のもと唐医疾令の中央医療関連規定群(宋8〜12、唐17〜22)の排列を再検討し、宋10・11が薬の調合の規定、唐14が調合した湯薬の進上規定であることから、宋10→宋11→唐14の排列だった可能性が高いとする。さらに現状の日本医疾令復原案との比較を進め、毎歳合薬条の「其中宮及春宮准レ此」の文言が注文ではなく本文であること、当初日本は地方の医療にまで手が回らなかったため唐令の地方医療関係規定を削除していることなどを指摘している。医疾令のみならず、天聖令の宋令・不行唐令が必ずしももとの唐令と一対一の対応関係にならない事例が追加された意義は大きい。なお、日本医疾令が、巡回治療する医師に対する「公廨給食」を規定した唐22を継受しなかった理由について、丸山氏は日本の国医師が医療ではなく主として教育を担ったためとするが、唐22は「諸医師〜」と始まるから地方の医師だけでなく中央の医師も含む可能性があり、日本が削除したのは官司独自財源の公廨を削除したことと関わるのではないかと思う。
 (16)坂上康俊「文苑英華の判の背景となる唐令について」は、文苑英華に収載された唐代の判(官吏としての決裁文、多くは科挙における試験対策用の模範文ないし実際の答案)を博捜し、唐令復原の参考資料を抽出したもの。長大な資料整理はもちろんのこと、判と唐令復原に関する日中の詳細な研究史整理も有益である。

 以上、16本の論文の紹介と若干のコメントを記してきた。倉卒の間に読み上げたため、誤読やあたらない批評など多々犯しているかと恐れるが、どうかご海容いただきたい。
 本書に収載された論考、及び小口氏還暦記念第一論文集『古代国家と北方世界』によって、関連諸分野の研究が大きく進展したことはうたがいがない。研究書の価格が高騰している昨今、若手研究者にとって、これほど重厚な論文集が定価7500円で入手できるとは、僥倖としか言いようがない。ぜひ一読をお勧めしたい。

律令制と日本古代国家

著書:小口 雅史 編

発行元: 同成社

出版日:2018/10

価格:¥8,250(税込)

目次

序―解題にかえて―(小口雅史)

第I部 日本古代の王権と外交
 “東夷の小帝国”論と「任那」問題(熊谷公男)
 古代王権と遺詔(稲田奈津子)
 天皇制を考える(大山誠一)
 延暦度遣唐使三題(森 公章)
 一世源氏元服に関する試論(江渡俊裕)
 皇子女の五十日・百日の祝について(新井重行)

第II部 律令田制をめぐって
 班田制と律令法(三谷芳幸)
 田令田長条に関する覚え書き(佐々田悠)
 大宝田令六年一班条と初期班田制(北村安裕)
 田令集解従便近条の考察(森田 悌)

第III部 律令制下の官僚制と地方
 古代東国における七世紀後半から八世紀初頭における交易体制(原 京子)
 文書の授受からみた天平五・六年における出雲国司の活動(鐘江宏之)
 弘仁六年給季禄儀における式兵両省相論をめぐって(虎尾達哉)
 平安時代中期の位禄制の評価をめぐる覚書(山下信一郎)

第IV部 唐制と日本
 唐医疾令断簡(大谷三三一七)の発見と日本医疾令(丸山裕美子)
 文苑英華の判の背景となる唐令について(坂上康俊)