書評コーナー

第62回 2020.06.01

横穴式石室の研究
発行元: 同成社 2020/02 刊行

評者:藤村 翔 (富士市市民部文化振興課)

横穴式石室の研究

著書:土生田 純之 編集

発行元: 同成社

出版日:2020/02

価格:¥15,400(税込)

目次

序 文 (土生田純之)
第1部 地域編
 I 九州地方
  地下式横穴墓の構造 (橋本達也)
  九州における横穴式石室の展開  編年・地域性・階層性の概観 (重藤輝行)
  複室構造横穴式石室  九州地域の横穴式石室に対する構造的理解に向けて (藏冨士 寛)
  北部九州における横穴式石室の終焉 (下原幸裕)
 II 中国・四国地方
  吉備における横穴式石室の展開と地域性 (尾上元規)
  山陰における横穴式石室研究の軌跡 (角田徳幸)
  四国の横穴式石室  土佐を中心に (清家 章)
 III 近畿地方
  播磨の横穴式石室 (中濱久喜)
 IV 東海地方
  伊勢湾西岸域における横穴式石室の展開 (宮原佑治)
  西三河の横穴式石室考 (森 泰通)
  横穴式石室墳の葬送儀礼  豊橋市相生塚古墳の調査成果をもとに (岩原 剛)
  遠江における擬似両袖式石室の特徴 (大谷宏治)
  空間利用からみた遠江・駿河の横穴式石室の普及 (田村隆太郎)
  構築方法からみた横穴式石室の伝播  駿河の事例から(菊池吉修)
 V 中部高地地方
  信濃松本平南部における横穴式石室 (小山奈津実)
  合掌形石室と無袖形横穴式石室  合掌形石室の終焉に関する様相の整理 (風間栄一)
 VI 北陸地方
  若狭・越における横穴式石室の導入と展開  若狭・越前を中心にして(入江文敏)
  北陸の横口式石槨・再論 (伊藤雅文)
  コシの横穴系埋葬施設と高志国 (小黒智久)
 VII 関東地方
  相模地域における横穴式石室の受容と展開 (植山英史)
  横穴式石室の構造と構築技術 (青木 弘)
  関東北西部の横穴式石室  導入とその系譜をめぐって (小林孝秀)
  東国における畿内型石室 (右島和夫)
 VIII 東北地方
  「合掌形石室」の成立と展開  福島県長井前ノ山古墳を中心に (菊地芳朗)
  日本海側北縁の横穴式石室伝播 (草野潤平)
  東北南部における横穴式石室の分布と系譜  宮城県を中心に (石橋 宏)
 IX 朝鮮半島
  韓国における横穴式石室研究の論点と構造・技術系統論 (山本孝文)
第2部 各論編
 I 祭祀・儀礼
  横穴式石室における土器祭祀の変容と特質  松本平を中心に (青木 敬)
  横穴式石室の儀礼と古墳の儀礼 (森本 徹)
  横穴式石室定着前後の土器副葬 (北山峰生)
 II 古墳構造の変遷と立地
  大型横穴式石室と交通 (菱田哲郎)
  首長墓系譜と埋葬施設構築技術の伝達 (太田宏明)
 III 横穴式石室に追葬された人々
  追葬された人々  古墳を築かなかった有力者たち(寺前直人)
総 論 横穴式石室の研究 (土生田純之)

 「私の専門は、横穴式石室です」。学生時代、緊張しつつも少し誇らしげにそう自己紹介した記憶は、今にして思えば面映ゆいところも少なくない。ちょうど評者が大学で学んでいた2005〜2010年前後は、まさに「横穴式石室ブーム」の只中であり、勢濃尾研究会(『横穴式石室からみた濃尾の地域社会』)、横穴式石室研究会(『近畿の横穴式石室』)、日本考古学協会2007年度熊本大会(『九州系横穴式石室の伝播と拡散』)、静岡県考古学会(『東国に伝う横穴式石室』)などなど、ここでは紹介しきれないくらいに石室関連の研究会や集成が全国各地で大規模に行われており、流行にちゃっかりと乗ってしまった評者を別として、同世代の学生には横穴式石室で卒論や修論を書かれた優秀な方が多かったと記憶している。
 その時期に比べると、次の10年は落ち着いた様子で、最近では横穴式石室を研究する若い人が少ないという話も聞き、やや寂しい気もする。そのような中で満を持して刊行された本書は、30年以上にわたって横穴式石室研究をリードされてきた編者の指揮のもと、列島各地から朝鮮半島にいたる横穴式石室研究の到達点を、各地域・分野を代表する総勢34名の第一線の研究者らが詳らかにしたという意味では、先の「ブーム」によって改めて世に問われた膨大な資料が、最新の研究に照らしつつ評価・総括されており、「あとがき」にもあるとおり、次代を見据えた研究指南書として相応しい内容となっている。

 「第1部 地域編」は総頁数の3/4を占め、上記の通り本書の中核を成す論考群である。横穴式石室は「5世紀の文明開化」とも評される古墳時代中期を中心とする時期に九州や近畿、北陸、東海西部などの一部で受容された新来の埋葬施設であるが、6・7世紀には九州南部から東北南部にいたる広範な地域で、各地の地域色を輝かせて「列島化」を遂げる。豊富な図版を交えて各地における階層構造も絡めた導入・展開の様相を整理した諸論考には、古墳時代後半期(朝鮮半島では三国時代)の地域史を学ぶための一級の概説書に相当するものも数多く、幅広い階層を分析できる横穴式石室の資料的潜在性に改めて気付かされる。
 そうした各論考を読み進める中でやはり興味を引くのは、各論者の石室伝播の捉え方であろう。5世紀後半から6世紀前半の時期は、横穴式石室の先進地である中北部九州や朝鮮半島の各地から海上交流網によって同地に起源をもつとされる石室が列島沿岸部を中心に点的に波及する一方で、倭王権周辺で6世紀前半に成立した「畿内型石室」は、特に6世紀後半以降に須恵器を用いた石室内儀礼や家形石棺といった要素と共に列島各地へ影響を及ぼすようになる。また、6世紀後半以降は「三河型石室」のような地域形式が広範囲に影響を与えるケースも各地で散見されている。こうした諸現象について、それらの伝播をどのように認定するのか、さらにそこにどのようなレベルの交流や社会的背景、政治性を見出すのかという点は、論者によって分かれるところでもあり、個々の資料に即した説得力のある論理が必要とされる。形態的特徴から伝播元を抽出する際には、副葬品や須恵器等の儀礼の特徴(土生田論考、重藤論考など)、技術的特徴(山本論考など)、石室下部構造や裏込め、墳丘内列石などといった外から見えない構造の特徴(草野論考など)、さらには変遷(型式展開)の特徴(草野論考)など、多様な観点によるクロスチェックが必要となる。煩雑ながらもそれらを解きほぐして説明することで、人の移動を伴う歴史的評価やその人々が属した社会構造について、最上位階層から一般構成員に近い人々まで同一の視角で捉えることが可能になる点に、横穴式石室を研究する醍醐味があるといえよう。

 「第1部」が横穴式石室分析における基礎研究に相当するのに対し、「第2部 各論編」では、埋葬位置・副葬品配置(森本論考)や土器副葬(北山論考)、墓前祭祀(青木敬論考)など諸儀礼の問題、大型石室の立地と街道の問題(菱田論考)、首長墓系譜と石室構築技術の伝達の問題(太田論考)、追葬とキョウダイ首長の問題(寺前論考)といった応用的研究が展開する。横穴式石室の儀礼というと、かつては全く新しい思想体系が大陸から導入されたと捉えるイメージも強かったが、近年の森本氏や北山氏、寺前氏、岩原氏らの研究から、あくまで古墳時代前・中期以来の伝統的な古墳の儀礼をベースに、空間的に広くなった墓室に合うようにカスタマイズされた側面も強調されるようになっている。また、青木敬氏が示した律令官人的な小人数の墓前祭祀(追善供養)とそれ以前の氏族的な大人数の墓前祭祀の違いに注目する視点は、信濃以外の官衙関連遺跡周辺の古墳群にも当てはまる部分が多く、古墳時代的な首長から郡領氏族への変遷を考える上で興味深い。各地で築かれた全長10mを超える大型石室の意義や首長系譜の性質に迫った菱田・太田両氏の論考は、バラエティー豊かな地域性に目を向けがちな横穴式石室の伝播や展開の在り方を、より広域的・相対的に捉え直すことで古墳時代史に大きく貢献できる可能性を示した意欲的な成果である。欲を言えば、九州系石室や朝鮮半島系石室の伝播論、畿内系石室と家形石棺の広域的な伝播とそれに伴う階層化の意義、横穴式石室以外の埋葬施設との関係性等について総括する諸論考もここに加わると、より充実した内容になったことだろう。

 以上、第1部・第2部の論考で示されたいくつかの論点について、評者の関心の向くままに紹介させていただいた。構成上の問題(第1部に畿内とその周辺地域の論考が少ない。第1部で横穴式石室墳における土器儀礼をパターン化した岩原論考、石室構築技術の分析から「技術体系」と「築造体制」双方を復原する必要性を指摘した青木弘論考は、第2部のほうがよい。また上述の青木敬論考は時代性から「祭祀・儀礼」の末尾のほうがよい。)や誤植が若干多い点など、気になる部分もあるが、それらを差し引いても、本書の意義は揺るぐことはなく、これだけのボリュームで各地域・分野の研究を網羅した文献はしばらく現れないだろう。各論考の評者なりの要旨を文末に付したので、個別の論考の内容についてはそちらを参照されてもよいが、本書には、編者による「序文」・「総論」に横穴式石室研究の関心の推移や各論考の詳しい紹介・論評(実はこれが本書の一番の見どころでもある)があるので、ぜひ書店等でお手に取り、そこからご一読されることをお薦めしたい。先の「横穴式石室ブーム」で世に出た多くの集成・資料集と、本書を手引きとして、横穴式石室の研究を志す若い世代の研究者が今後一層増えることを祈念し、収筆としたい。

本書の構成と各論の概要

序文(土生田純之)

第1部 地域編
I 九州地方
 「地下式横穴墓の構造」(橋本達也)は、まず地下式横穴墓=隼人の墓制という言説は妥当ではないことを明確に示した上で、古墳時代研究者でも実物を見る機会が非常に少なく、どうしても九州南部のローカルなイメージが先行する墓制について、外来系である「横穴系埋葬」の思想が在地墓制と融合して生み出された点、また中期中葉から後半には倭王権との緊密さを示す豊富な甲冑を副葬する九州地域でも最上位クラスの首長墓にも採用される点などを重視し、地域色のある古墳時代の各地の墓制を列島全体の中でより相対的に捉えるべき視点の必要性を説いている。
 「九州における横穴式石室の展開―編年・地域性・階層性の概観―」(重藤輝行)は、中期初頭から前半に成立する北部九州型・肥後型(初期横穴式石室)の導入・成立から後期以降の複室両袖型石室・装飾古墳の普及に至るまでに形成された複雑な地域性・階層性やそこに至った過程について、石室空間に基づく分類を基に簡潔に整理し、それらが中期以来の墓制のあり方や階層構成を土台として展開した点を強調する。その中で、九州内の地域型石室相互の地域間関係や、瀬戸内海沿岸や山陰、東海などのいわゆる九州系石室に直接影響を与えた地域型まで時系列を追って図示した図6は圧巻であり、異論もあろうが、今後列島全体の九州系石室を比較検討する際には重要な試金石となるだろう。そして、特に装飾・複室両袖型石室の広域展開については、かつて太田宏明が示した互恵的な人間関係を媒介とする伝播論のみでは説明し難い、むしろ磐井の乱などの歴史的な事件とその政治的変動を背景として捉えるべきことを指摘する。
 それに対し、「複室構造横穴式石室―九州地域の横穴式石室に対する構造的理解に向けて―」(藏冨士 寛)は、重藤によって九州全体の共通性を重視された複室構造石室の成立について、あくまで土器副葬空間を作り出すことを目的とした表現の結果として捉え、そこに至る過程が筑後・北肥後系、筑前系、西北部九州系という3地域にわかれることを示す。以前の藏冨士氏の論文にみられた「型」ではなく、より緩やかなまとまりとしての「系」という概念を新たに採用した点は注目されよう。そして3地域における複室構造石室の分布には地理的傾斜が存在し、それぞれの分布境界領域は石室の融合も進むことが認められる点を重視し、九州全体に影響を発するような強力な集団は想定し得ないと結論づけている。
 「北部九州における横穴式石室の終焉」(下原幸裕)は、北部九州各地の群集墳を中心に石室変遷の様相を紹介し、複室構造に代表される地域性が、7世紀中葉を境に石室規模の小型化や複室構造の衰退、羨道の小規模化や消失が顕著となり、副葬品の簡素化もあわせて進行することで、徐々に消失する過程を提示する。そのような変化の背景には、政治的・社会的な装置としての機能を果たしていた「古墳」から、律令社会の整備と共に一個の「墓」への機能変化(原点回帰)が生じたことを推定する。

II 中国・四国地方
 「吉備における横穴式石室の展開と地域性」(尾上元規)は、吉備の石室構造について九州的要素(内側に突出する玄門立柱石・楣石)と畿内的要素に注目することで、石室の特徴を共有する8地域を設定し、西から東に向かうにつれて九州的要素が欠落することを指摘する。こうもり塚古墳、箭田王塚古墳を擁する備中南東部地域の石室を、地域内に構築技術が継承されることを重視して「在地型」と捉える一方で、点的に他地域に伝播した鳥取上高塚古墳や牟佐大塚古墳のような「非在地型」こそが他地域との直接・政治的関係を読み解くことに適した資料であることを強調する。
 「山陰における横穴式石室研究の軌跡」(角田徳幸)は、出雲・伯耆における膨大な横穴式石室研究の蓄積を紐解き、その成果を墳丘・石室の築造方法、地域性とその背景、祭祀の3分野に分けて紹介する。特に地域性については、山陰の横穴式石室の多くが中北部九州の系譜を引くことを確認した上で、① 九州からの移住など直接的な関係による石室の伝播(筑紫・宗像地域→伯耆西部:竪穴系横口式石室・羽子板形石室)、②九州の地域集団との政治的な関係による伝播(肥後→出雲東部:石棺式石室・横穴墓など)、③山陰の地域集団間における九州系横穴式石室の要素の2次的伝播(出雲東部→出雲西部:玄門に突出する袖石、複室構造など)にモデル化しており、複雑な九州系の要素をそのレベル毎に解きほぐしている。
 「四国の横穴式石室―土佐を中心に―」(清家 章)は、四国各地における横穴式石室の導入と展開について旧国別に整理し、総じて九州系石室の要素が在地で変化することで、各地に地域色の強い石室が展開することになったと評価する。そのような中で、後期前半には畿内型石室との関係が濃厚とされる伊予・三島神社古墳、肥後と関わる石屋形のほか、紀伊の岩橋千塚古墳群と類似した石室構造を有する讃岐・王墓山古墳、菊塚古墳、そしてやはり肥後に祖型をもつとみられる阿波の大國魂古墳(段ノ塚穴型石室)が、継体朝とその支援勢力との個別的連携の中で点的に導入されたとみる。後期後半以降には畿内との連携がさらに深化したことで、讃岐の大野原古墳群と共通する石室が各地で築かれるようになり、7世紀の角塚古墳段階には四国全域から瀬戸内、紀伊を含む連携網が整備されたと結論づけた。

III 近畿地方
 「播磨の横穴式石室」(中濱久喜)は、同地域の横穴式石室を袖石が内側に突出する九州系と突出しない畿内系に大別、さらに前者は羨道の有無、後者は平天井と穹窿天井に細分すし、これに無袖式石室や横口式石槨も補足することで、その消長を提示する。九州系石室については、分布・築造時期が非常に限られる単室無羨道型を北部九州からの単発的な直接的伝播によるものと想定し、羨道をもつものは四国北部(讃岐・大野原古墳群周辺)を経由した連鎖的伝播によるものと想定する。一方、播磨全域に分布する平天井の畿内系石室については、6世紀後葉から7世紀前半に首長墳から群集墳まで重層的な階層構造を形成する点、後の郡中枢地域に築かれる点から、評造や郡領層につながる首長層を中心に採用されたとした。

IV 東海地方
 「伊勢湾西岸域における横穴式石室の展開」(宮原佑治)は、5世紀中葉という早い段階から横穴式石室を採用する同地域の状況について、ともに九州からの伝播とみられるおじょか古墳、井田川茶臼山古墳という導入期の様相から、5世紀末から6世紀前半の竪穴系横口式石室、有階式石室、6世紀前半以降の畿内系(型)石室、そして6世紀後半以降の高倉山型石室の検討を軸に整理する。その結果、導入期には倭王権の関与という極めて政治的な意図をもって北部九州系石室が導入されたことを想定し、6世紀後半以降は内陸部も含めた伊勢湾沿岸域の「均衡した」地域間交流が活発化する中で、畿内系や高倉山型、三河型といった石室のほか、組合式石棺の葬法も拡がることを指摘する。
 「西三河の横穴式石室考」(森 泰通)は、同地域の横穴式石室を無袖形(段構造あり)と擬似両袖形に大別し、前者を九州から導入された竪穴系横口式石室の系譜を引くもの、後者を北勢の井田川茶臼山古墳・大塚C-1号墳を祖型とする羨道が未発達なものと当初から複室構造をとるものに分けて捉える。石室形式による階層構造も明瞭であり、6世紀前半までは竪穴系横口式石室・無袖形石室が首長墳から小規模墳にまで採用されていたのが、6世紀中葉に擬似両袖形が登場すると、6世紀後葉には首長墳が大型の擬似両袖形、小規模墳は無袖形という図式に変化し、7世紀前半には小規模墳まで擬似両袖形が浸透するようになる。周辺地域にも大きな影響を与えた擬似両袖形(いわゆる三河型)を創出した西三河地域の特質については、それが倭王権との関係性の濃淡を示すのか、あるいは石工集団を抱えていたことによるのかについて、課題が残るとした。
 「横穴式石室墳の葬送儀礼―豊橋市相生塚古墳の調査成果をもとに―」(岩原 剛)は、横穴式石室墳における土器儀礼のほぼすべてのパターンが揃っているとされる相生塚古墳の分析を軸に、東海における同儀礼の展開や地域性について予察を行う。横穴式石室墳における土器儀礼は、6世紀前葉から中葉にかけて拡がるが、中期からの伝統として墳丘や周溝での儀礼が先行し、段階的に石室内へ儀礼の場が設けられるようになったと指摘する。石室内儀礼としては、玄室入口付近に供膳具を置く例が多いが、その導入には地域によって時期差がみられるようである。石室外の土器儀礼の場には、石室前面、墳丘上、周溝、土坑があり、破砕行為を伴うことが多いが、7世紀前葉には盛大化したとする。無袖形石室の奥壁際に土師器甕を置く儀礼や、畿内型石室で体系化された土器儀礼が非畿内系石室においても実施された意味など、石室形式と儀礼との関わりの問題についても提起する。
 「遠江における擬似両袖式石室の特徴」(大谷宏治)は、6世紀末〜7世紀以降に同地域で急増する擬似両袖式石室について、地域単位でその特徴を提示し、伝播元と目される西三河周辺の同石室(三河型石室)の諸属性と比較することで、伝播元から離れるにつれて円礫の使用などといった地域色が目立つようになることを客観的に示す。その導入の意義については、6世紀後葉頃までは畿内系石室や横穴式木室といった横穴系埋葬施設が多様化する状況から、擬似両袖式石室の採用によって石室系統がしぼられ、複室、単室、無袖の別によって階層性も表現できるようになった点を評価する。
 「空間利用からみた遠江・駿河の横穴式石室の普及」(田村隆太郎)は、同地域における横穴式石室の導入・展開期にあたる6世紀代の事例を対象に、①羨道の埋葬化の有無、②棺体配置、③埋葬空間と土器配置空間の使い分けについて検討する。その結果、①は6世後半の畿内系大型石室を中心に認められ、②は石室主軸中央に配置する場合が多いが、畿内系の二棺並列葬とは系譜の異なる、逆頭位の存在に注意を促す。③は遠江の有袖石室では玄室奥寄りに埋葬、前寄りに土器配置の原則が見られるが、無袖石室は本来石室内に土器を持ち込まない原則があったことを指摘する。一方、西駿河・中駿河では石室内の各所に土器が配置される例が多いが、無袖石室が集中する東駿河では奥寄りに埋葬、前寄りに土器配置という使い分けが認められるとしている。
 「構築方法からみた横穴式石室の伝播―駿河の事例から―」(菊池吉修)は、同地域で見られる石室側壁の石材配置に主眼を置いた石室構築方法を検討し、それが西駿河の擬似両袖式や東駿河の無袖式石室といった形態と関連して定着したことを論じる。擬似両袖式石室では、横目地が中央部で乱れる特徴と、奥壁側上方への緩やかに斜行する目地に注目し、その技法が形態的淵源とみられる西三河の同種の石室と共通することを指摘する。一方、畿内系石室をみると、賤機山古墳は壁面上部で奥壁側上方へ斜行する目地や、側壁中央部の調整区(大型石材の間を小型石材で調整した箇所)の存在から、畿内地域出身の石室技術者の直接的関与を想定するが、以後の畿内系石室(駿河丸山古墳など)には踏襲されないという。

V 中部高地地方
 「信濃松本平南部における横穴式石室」(小山奈津実)は、これまでに地域全体を対象とした横穴式石室の分析が未着手であった同地域の資料を集成し、平面形態による分類を軸にその消長と特徴について検討している。その結果、時期は6世紀前半から8世紀中葉までの築造が確認でき、平面形態は無袖式が大半を占め、両袖式、片袖式は少ないという。また、平面形態にかかわらず立石の使用が認められるが、その採用は7世紀以降であり、6世紀代の石室には見られないとしている。
 「合掌形石室と無袖形横穴式石室―合掌形石室の終焉に関する様相の整理―」(風間栄一)は、信濃・大室古墳群の特徴として注目されてきた合掌形石室を箱形石棺構造で切妻形天井の1型と、上がり框を有する無袖形横穴式石室構造で寄棟形天井の2型に大別し、その消長と出現経緯について考察する。1型は5世紀前半から盛土墳丘、5世紀後半の大室古墳群では積石墳丘と結びついて展開する一方で、2型は6世紀前半以降に中部高地で展開をみせる無袖形石室に合掌形天井という象徴性を付与して創出されたものと捉える。北信地域で5世紀代を通じて上位階層の埋葬施設の象徴とされた合掌形天井は、2型成立の段階にはまだその意義があったものの、6世紀後半以降、土石混交墳丘の無袖形石室墳が主流となり、その意義を失うとしている。

VI 北陸地方
 「若狭・越における横穴式石室の導入と展開―若狭・越前を中心として―」(入江文敏)は、本州では古い段階から横穴式石室を導入した同地域における横穴式石室の展開について俯瞰する。若狭では5世紀中葉から6世紀前半に北部九州系の石室が継起的に導入されるが、5世紀段階(向山1号墳、西山古墳)は個々の特徴が著しく、横穴式石室の性格や階層差といった約束事までは理解されていないが、6世紀前半頃(十善ノ森古墳・獅子塚古墳)には、北部九州と相似形の石室プランや赤色顔料の塗布といった要素も導入されており、この段階で埋葬原理も含めて受容されたとみる。6世紀後半以降は特に若狭で畿内型石室と認定される左片袖式・両袖式の大型横穴式石室(丸山塚古墳、加茂南・北古墳)が継続的に築かれており、若狭国造の膳氏やその同族の阿倍氏との関係を背景に、大和南部から石室構築技術が伝播したことを想定する。一方、越では5世紀末頃から畿内系石室(滝3号墳)が導入され、特に6世紀後半以降、大型石室が群集墳の盟主墳に採用されるようになるが、若狭のように突出した規模の石室は見られず、倭王権による地域支配に差があることを指摘する。
 「北陸の横口式石槨・再論」(伊藤雅文)は、近年正報告がなされた小松市・那谷金比羅山古墳について、本来は「ハ」字状の前庭部を有する凝灰岩切石積みの横口式石槨墳に復原し、築造時期は8世紀初頭前後とする。加賀・能登地域では7世紀第3四半期以降の古墳に同様の前庭部が設けられており、切石積みも同地域の石室構築技術の系譜上に理解できるようである。横口式石槨自体は王権中枢や百済の影響によって成立するものであるが、8世紀初頭における墓前祭祀的な儀礼は畿内ではすでに行われておらず、評制施行に伴い王権に取り込まれた在地首長らによってアイデンティティを表出した結果と捉えている。
 「コシの横穴系埋葬施設と高志国」(小黒智久)は、同地域における6世紀末から7世紀の横穴系埋葬施設を概観し、コシ(高志国)が7世紀末までに高志前、高志中、高志後、佐渡に分国されることに至った背景について検討する。高志前国(越前・加賀・能登)では、両袖式の巨石墳である院内勅使塚古墳や百済・陵山里古墳群との関係が推定されるという凝灰岩製切石積石室の河田山12号墳、T字形石室の須曽蝦夷穴古墳のほか、集落内のオンドル状施設、半瓦当葺き建物といった倭王権や朝鮮半島との関わりが深い地域として重視された点を評価する。一方、高志中国(越中〜阿賀野川以南)では狭長な平面プランや河原石積を採用する石室が主体であり、王権との関わりが浅く、地域主導で開発が行われた地域としたほか、古墳が築かれなかった地域を高志後国(阿賀野川以北〜出羽)、狭長な無袖式や半地下式の石室が築かれた佐渡島を佐渡国というように、王権との関係性を軸に分国されたことを推定する。

VII 関東地方
 「相模地域における横穴式石室の受容と展開」(植山英史)は、同地域における横穴式石室の導入・展開の過程について、主に墓坑や前庭部、奥壁の用石法から検討する。導入は無袖式で周溝部に馬の埋納土坑を伴う伊勢原市の三ノ宮・下谷戸7号墳であり、石室構造から遠江・馬ノ坂上16号墳周辺の影響下で6世紀後葉前後に築造されたとみる。また、同市内ではその後、片袖式が埒面古墳、両袖式が登尾山古墳といった首長級の古墳に採用されるが、その系譜は明らかでないとしつつも、少なくとも無袖式の伝播経路(遠江)ではないとする。7世紀前半以降は各地で無袖式が盛行、段構造や「ハ」の字状などの発達した前庭部を有する事例が地域性を形成しつつ増加する一方で、駿河や東京湾岸で類例のあるいわゆる「狭長な無袖石室」は単発的な展開を示す。相模地域への石室構造の伝播には複数回の他地域からの契機を認め得るが、次代にそのまま引き継がれることはなく、在地化・共有化された結果、漸移的な変遷を示す点に特色がある。そのような状況から、7世紀後半以降に再び全く新しい技術系譜を有する大型切石積の釜口古墳、石神古墳が築造され、終焉を迎える。
 「横穴式石室の構造と構築技術」(青木 弘)は、三次元計測調査に基づいた東松山市・若宮八幡古墳の横穴式石室の分析を軸に、石室構築工程やその技術体系、さらにそれらを包括する築造体制について検討する。石室構築上の最も重要な段階とみなすのは、奥壁・玄室側壁中段から立柱石上端、羨道側壁上端を通る目地であり、これが墳丘テラス面と対応する点から、石室構築と墳丘構造が密接に関わることを確認する。三次元計測の真骨頂ともいえる石材加工痕の記録からは、石室構築と同時並行で進められた作業方向の共通性を読み取り、少人数での作業体制を想定する。さらに、土木技術に関する文献史学や建築学、民俗学的成果を採り入れることで、石材加工を可能とした鉄製道具が有力者によって限定的に保有・管理された実態を推定し、「技術体系」と「築造体制」の双方の存在によって古墳構築が可能となっていたことを指摘する。
 「関東北西部の横穴式石室―導入とその系譜をめぐって―」(小林孝秀)は、上野・北武蔵北西部の事例を基に導入期の様相を検討する。まず、上野の簗瀬二子塚古墳、前二子古墳といった6世紀前半の首長墳に採用された狭長な羨道と玄室羨道間に段差のない天井を有する両袖石室については、北陸(佐渡・台ヶ鼻古墳)や北部九州(肥前・島田塚古墳等)、朝鮮半島南部(固城・松鶴洞1B古墳1石室等)の類例から、玄界灘―日本海沿岸を取り巻く海上交流網の中に系譜関係を求められる可能性を指摘する。さらに上野・轟山A号墳や北武蔵・北塚原7号墳に採用された狭長な無袖石室についても、北陸(越中・朝日長山古墳)、半島南東部(昌寧・校洞1・3号墳など)間の交流網に系譜を求め得るとしている。なお、朝鮮半島、北部九州から関東へ至る横穴式石室の伝播のなかで、中継地としての北陸を重視する視点については、渡来系遺物の評価の議論も含めて総合的に評価すべきことを注意する。
 「東国における畿内型石室」(右島和夫)は、上毛野地域で7世紀前半に散見される畿内系石室を抽出し、その歴史的意義について検討する。同地域は東国の中でも古墳時代を通じて倭王権との密接な関係が認められるが、典型的な畿内型石室と認定できるものはなく、楣石や低い玄室天井などの在地的特徴を有するものの、八幡観音塚古墳、金古愛宕塚古墳、総社愛宕山古墳、南下B号墳が畿内系石室として認定できるという。中でも八幡観音塚古墳はこれまでに類のない巨石を用いて構築されており、その石材選定から運搬、基礎地業、壁体構築などといった総合的な技術体系の発信源を、畿内の五条野丸山古墳や石舞台古墳に求めている。さらに観音塚古墳が、5世紀後半以降に畿内から東国への玄関口として発展し、簗瀬二子塚古墳等の導入期横穴式石室が集中する古東山道ルートの烏川・碓井川流域に位置する点から、倭王権との深い結びつきを上毛野地域全体に知らしめす役割があったと指摘する。

VIII 東北地方
 「『合掌型石室』の成立と展開―福島県長井前ノ山古墳を中心に―」(菊地芳朗)は、小型前方後円墳である同古墳の埋葬施設の検討を軸に、「合掌形石室」の性格について論じている。その中で、同石室は導入期の資料に竪穴系横口式石室の系譜がうかがえるものの、その後の横穴系埋葬施設としての展開は見え難いことから、むしろ箱形石棺をベースに合掌天井という要素を加えて信濃・善光寺平で誕生したものと捉え、合掌形石棺の用語を新たに提唱する。その外部展開については、いずれも100m級の大型前方後円墳の築造が中期初頭で断絶する山形県置賜盆地、福島県会津盆地、山梨県甲府盆地の中期後半頃の中小規模古墳に採用される点に共通性を見出し、善光寺平のように積石塚とセットで採用されていないことから同地域による強い発信力は窺えないものの、地域の中小リーダー間の自然伝播に近いあり方で伝わったことを想定する。
 「日本海側北縁の横穴式石室伝播」(草野潤平)は、横穴式石室の分布の日本海側の北縁となる山形県置賜地域の資料について、その導入契機と展開について検討する。同地域では玄室平面矩形で単室・両袖形の石室が7世紀第2四半期から8世紀代1四半期まで築造されており、「羽山型」→「北目I型」→「清水前型」と変遷するにつれ、玄室平面プランは長方形から正方形に変化するが、一部の有力墳で切石加工が発達した「金原型」が採用される。羽山型は角礫によって敷設された基壇上に裏込礫を伴って石室を構築する点を重視し、その系譜を群馬県南西部の鏑川中・上流域の石室に求める。羽山型以降の型式変化も含めて両地域の石室展開の足並みが揃う点は、その交流網が7世紀後半まで継続していることを示す点で興味深い。また金原型やその類例については、L字形切り欠き、擬似両袖、床面に敷かれた一枚の板状石材の上に玄門立柱石を立てる構造(組み立て玄門)に注目し、茨城県中央部(水戸市・ニガサワ1号墳)ないし栃木県南東部からの技術伝播を想定する。以上の検討を通じて、日本海側北縁の横穴式石室が、北関東諸地域からの集団移住やその後の首長間交流によって展開したことを指摘する。
 「東北南部における横穴式石室の分布と系譜―宮城県を中心に―」(石橋 宏)は、同県の横穴式石室の様相を整理し、その展開が東北南部から関東諸地域との交流の中で進められたことを指摘する。阿武隈川・白石川流域では6世紀後半の無袖形石室から導入され、有力古墳を中心に擬似両袖に推移するという東北南部と共通する変遷を辿る。ただ大久保5号墳や上蟹沢古墳といった一部の上位階層の古墳は、別に関東北部から東北南部との交流の中で導入された可能性を指摘する。仙台平野では7世紀初頭から前半に法領塚古墳に代表される平面長大で玄門部で窄まるプラン、腰石、玄室奥半の壇上構造などの特徴の石室が、茨城県北東部から福島県いわき市にかけての「多珂」地域との関係で成立したとする一方で、安久諏訪古墳などの前庭部が発達した両袖形については、群馬県中西部との関係を想定する。大崎平野では7世紀前半から中葉にかけて展開する、奥窄まり・胴張りの両袖プランの鳥屋1号墳や色麻古墳群について、埼玉県北西部の鹿島古墳群や群馬県南西部の東平井古墳群との関係性を指摘している。

IX 朝鮮半島
 「韓国における横穴式石室研究の論点と構造・技術系統論」(山本孝文)は、三国時代に韓半島全域に波及した横穴式石室の概要を提示し、現在の到達点や課題について整理する。韓半島の各地域勢力は、三国時代の当初から墓葬制における独自のアイデンティティを有しており、横穴式石室の導入後も、高句麗は壁画による墓内装飾、百済は南朝から導入した塼室墳とそれを基にした石室形態、新羅は一墳多葬、加耶は長大な竪穴式石槨から派生した石室形態、栄山江流域は甕棺を納めた横穴式石室というように、新来の文化や在地の伝統的墓制を利用して、地域毎の独自性を維持し続けていたとみる。横穴式石室普及の背景としては、築造コストの削減(高句麗・新羅)、合葬・追葬を求める社会理念への転換、官僚的統治機構(石室構造・規模・使用石材、副葬品等による階層表現)の成立を挙げている。石室の系譜・系統の問題については、様々な角度から多様な伝播の要因(形態のみの伝播、アイデアのみの伝播、など)を想定する必要性を説いており、領域を跨いで相互に影響を与え合う複雑な展開過程から有意な系統関係を理解するためにも、石材加工や構築の技術系譜、葬送儀礼についても明らかにする必要があることを指摘する。

第2部 各論編
I 祭祀・儀礼
 「横穴式石室における土器祭祀の変容と特質―松本平を中心に―」(青木 敬)は、信濃国府推定地である同地域の石室から出土する土器のうち、律令的土器様式の飲食器類を開口部周辺に伴う事例に着目し、それらを官人層や官衙の下級職員などが自らの祖先を対象として飲食に特化した祭祀(斎食)を実施した痕跡と評価する。また、こうした土器群を伴う古墳は各支群に1基程度であり、古墳時代後期の墳丘・前庭部祭祀で多用された大容量の須恵器甕を欠くことが多い点から、祭祀の参集者が氏族単位(大人数)から、律令官人として出仕した戸主の家族単位(少人数)へと変化したことを推定し、後者の祭祀を奨励した中央政権に、伝統的な氏族制を解体させる意図があったことを指摘する。
 「横穴式石室の儀礼と古墳の儀礼」(森本 徹)は、畿内地域の代表的な横穴式石室墳である5世紀末の高井田山古墳と6世紀後半の藤ノ木古墳の埋葬位置・副葬品配置に共通する、(1)棺と石室閉塞による特定の副葬品を伴う被葬者の厳重な密封(祭具としての遺骸の保護)、(2)棺周辺への副葬品の配置(生前の社会的立場の表現)、(3)被葬者から離れた場所への飲食儀礼の道具の配置(石室以外の場所での共食儀礼)、という三要素を近畿中央部の横穴式石室の葬送儀礼の典型と位置づけ、それらが空間的にも階層的にも、各地の被葬者集団が個別に有していた喪葬風習に上書きするように展開したことを指摘する。そして、それら三儀礼が前期や中期以来の古墳の儀礼がやや形を変えて受け継がれたものであるとして、その本質を首長権の継承にあると理解し、大王権については天武天皇陵において火葬が採用されるまで実修されたとする。
 「横穴式石室定着前後の土器副葬」(北山峰生)は、畿内地域の木棺直葬墓と横穴式石室における土器副葬のあり方を検討することで、古墳に須恵器(杯・杯蓋主体)を副葬するという行動様式が、5世紀後半の古墳文化(とりわけ木棺直葬墓)で定着し、6世紀に横穴式石室を構築するにあたりそれらが取り込まれていった経過を論じる。6世紀後半以降、横穴式石室の広い空間に適した須恵器高杯の長脚化・壺類の長頸化が生じた点から、外来の文化である横穴式石室の意義を認めつつも、あくまで5世紀以来の在来の古墳文化とそれが相互に作用したことで、6世紀の古墳文化が形成された点を強調している。

II 古墳構造の変遷と立地
 「大型横穴式石室と交通」(菱田哲郎)は、瀬戸内海沿岸の全長10m以上の大型横穴式石室墳の立地と律令期の官道との関係について検討し、同石室と山陽道や南海道(中でも水陸交通の結節点)との相関が6世紀後葉から末にかけて極めて高くなることを指摘する。この点は、同規模の石室が郡レベルで均等に存在し、交通路との関係が明瞭ではない畿内やその周辺地域とは大きく異なる。瀬戸内海沿岸の大型石室墳には、律令期の駅家推定地に近接するものもあり、同被葬者たちが、駅家のもつ交通への供給機能と同様の役割を果たしたと考え、交通機能を有した屯倉とその管理者(国造)の存在を示す資料として評価する。
 「首長墓系譜と埋葬施設構築技術の伝達」(太田宏明)は、古墳時代中・後期の首長墓系譜を構成する古墳の埋葬施設に着目することで、同一系譜の首長間でその情報がどの程度共有されていたのかをモデル化し、その紐帯関係の内容について考察する。横穴式石室採用後の後期の首長墓系譜では、埋葬施設に関する情報が先代から次代へと継承・共有される仕組みの普及がみとめられる一方で、中期では竪穴系埋葬施設から横穴式石室へと変化したり、古墳間で統一性を欠くものが多かったりと、埋葬施設の情報を先代首長から継承しようという意図は少なく、むしろ被葬者の生前の交流関係によって埋葬施設の形態が選択されるケースが多いことを指摘する。なお、後期のようなモデルは、大王墓を含む古墳時代中期の大型古墳群で一早く達成されたものが各地へ普及したものと評価する。

III 横穴式石室に追葬された人々
 「追葬された人々―古墳を築かなかった有力者たち―」(寺前直人)は、各地域を代表する大型横穴式石室内に複数の石棺を有する5例の首長墳(南塚古墳、円山古墳、井田川茶臼山古墳、上塩冶築山古墳、中村1号墳)の棺配置や副葬品内容を検証し、南塚古墳を除く4例で、いずれも男性の同世代・同格の人物が追葬されていることを指摘する。また、4例の石棺はいずれも石室の構築時あるいは構築後の早い段階で追葬棺まで設置していることから、葬るべき人物が予め決定されていたと考え、それらの人物を、権力を分有したキョウダイ首長とみる。このような首長権力の実態は前・中期のそれとも共通するが、一石室内に単体あるいは少人数の埋葬が多い横穴式石室の実態自体が、前・中期の墳頂部複数埋葬のあり方とほとんど変わらないのであり、横穴式石室=新来の家族墓(父系親子の墓)という先入観を排する必要性を説く。

総論
「横穴式石室の研究」(土生田純之)
あとがき(土生田純之)

※論考要旨の語句等は、可能な限り論考執筆者の用語を用いている。

横穴式石室の研究

著書:土生田 純之 編集

発行元: 同成社

出版日:2020/02

価格:¥15,400(税込)

目次

序 文 (土生田純之)
第1部 地域編
 I 九州地方
  地下式横穴墓の構造 (橋本達也)
  九州における横穴式石室の展開  編年・地域性・階層性の概観 (重藤輝行)
  複室構造横穴式石室  九州地域の横穴式石室に対する構造的理解に向けて (藏冨士 寛)
  北部九州における横穴式石室の終焉 (下原幸裕)
 II 中国・四国地方
  吉備における横穴式石室の展開と地域性 (尾上元規)
  山陰における横穴式石室研究の軌跡 (角田徳幸)
  四国の横穴式石室  土佐を中心に (清家 章)
 III 近畿地方
  播磨の横穴式石室 (中濱久喜)
 IV 東海地方
  伊勢湾西岸域における横穴式石室の展開 (宮原佑治)
  西三河の横穴式石室考 (森 泰通)
  横穴式石室墳の葬送儀礼  豊橋市相生塚古墳の調査成果をもとに (岩原 剛)
  遠江における擬似両袖式石室の特徴 (大谷宏治)
  空間利用からみた遠江・駿河の横穴式石室の普及 (田村隆太郎)
  構築方法からみた横穴式石室の伝播  駿河の事例から(菊池吉修)
 V 中部高地地方
  信濃松本平南部における横穴式石室 (小山奈津実)
  合掌形石室と無袖形横穴式石室  合掌形石室の終焉に関する様相の整理 (風間栄一)
 VI 北陸地方
  若狭・越における横穴式石室の導入と展開  若狭・越前を中心にして(入江文敏)
  北陸の横口式石槨・再論 (伊藤雅文)
  コシの横穴系埋葬施設と高志国 (小黒智久)
 VII 関東地方
  相模地域における横穴式石室の受容と展開 (植山英史)
  横穴式石室の構造と構築技術 (青木 弘)
  関東北西部の横穴式石室  導入とその系譜をめぐって (小林孝秀)
  東国における畿内型石室 (右島和夫)
 VIII 東北地方
  「合掌形石室」の成立と展開  福島県長井前ノ山古墳を中心に (菊地芳朗)
  日本海側北縁の横穴式石室伝播 (草野潤平)
  東北南部における横穴式石室の分布と系譜  宮城県を中心に (石橋 宏)
 IX 朝鮮半島
  韓国における横穴式石室研究の論点と構造・技術系統論 (山本孝文)
第2部 各論編
 I 祭祀・儀礼
  横穴式石室における土器祭祀の変容と特質  松本平を中心に (青木 敬)
  横穴式石室の儀礼と古墳の儀礼 (森本 徹)
  横穴式石室定着前後の土器副葬 (北山峰生)
 II 古墳構造の変遷と立地
  大型横穴式石室と交通 (菱田哲郎)
  首長墓系譜と埋葬施設構築技術の伝達 (太田宏明)
 III 横穴式石室に追葬された人々
  追葬された人々  古墳を築かなかった有力者たち(寺前直人)
総 論 横穴式石室の研究 (土生田純之)