書評コーナー

第25回 2015.05.11

遠江湖西窯跡群の研究
発行元: 発行:後藤建一 発売:六一書房 2015/04 刊行

評者:酒井 清治 (駒沢大学 文学部 教授)

遠江湖西窯跡群の研究

著書:後藤建一 著

発行元: 発行:後藤建一 発売:六一書房

出版日:2015/04

価格:¥4,950(税込)

目次

はじめに.
序 章 湖西窯跡群の概観
 第1節 取り巻く環境
 第2節 湖西窯跡群と静岡県内の諸窯
第1章 形式・型式の設定
 第1節 須恵器編年の形成
 第2節 規格性と所作
 第3節 蓋坏の形式変化
第2章 出土須恵器の分類と編年
 第1節 蓋坏類の分類
 第2節 編年
 第3節 年代
第3章 製造の技術
 第1節 窯構造
 第2節 窯場
 第3節 粘土と薪
第4章 製作の技術
 第1節 東海地域窯業の量産化指向
 第2節 須恵器とロクロ技術
 第3節 底部円盤造りの展開
 第4節 風船技法の展開
 第5節 量産化と多器種製作
第5章 生産の構造
 第1節 浜名郡輸租帳の窯業生産者
 第2節 神(ミワ)氏族と窯業生産
 第3節 湖西窯跡群の量産化
 第4節 湖西窯跡群の生産構造
 第5節 官衙整備と遠隔地生産
第6章 6世紀の流通構造
 第1節 駿河西部域諸窯の抽出
 第2節 駿河西部域古墳出土の須恵器流通
 第3節 地域流通へのアプローチ
第7章 7,8世紀の流通構造
 第1節 東日本太平洋沿岸諸国の出土事例
 第2節 東日本太平洋沿岸諸国の流通
 第3節 境界領域の流通
終 章 生産と流通の展開諸相
 第1節 首長制の生産関係
 第2節 窯業生産と社会的分業
あとがき.

 後藤の著書『遠江湖西窯跡群の研究』は、浜名湖西岸の静岡県湖西市から愛知県豊橋市に広がり、古代から中世にかけて須恵器・灰釉陶器・中世陶器を生産した東日本有数の湖西窯跡群について、その生産・流通・流通構造などを解明しようとする内容であるが、多義にわたるため書評というより紹介が主となる。
 序章で、湖西窯跡群の概要に触れた。5世紀末から6世紀前半には、在地首長による窯業生産が開始され、6世紀中頃から後半にかけては、国造支配地域を越えて東三河から遠江の広域流通圏が成立した。6世紀末から7世紀末にかけて大きな転換期をむかえ、窯構造の変化、窯の増大とともに、流通範囲も西は大阪府、北は青森県八戸まで広がり各地の古墳から出土する。8世紀前半にはさらに窯の分布が濃密になり継続して広域流通が続くが、湖西産須恵器は8世紀後半に遠江・東三河・東駿河に限られ、9世紀前半は終焉を迎えるとする。時期により生産体制、流通構造など異なるようである。
 第1章「形式・型式の設定」では、考古学資料の問題点である、出土資料の型式設定方法を検討した。後藤は、須恵器編年の形成を目指し、須恵器の器種分類や一括遺物から相対編年を考え、型式組列に暦年代を比定する方法を模索した。そして須恵器の持つ規格性と銘々器の所作と器種について注目した。そして蓋坏の形式変化について法量値だけでなく、成形技法や器形の形状も大きな属性とした。遠江東部・浜松・藤枝地域の墳墓および、湖西窯の出土例の法量散布図を検討し、5mmもしくは1cmで徐々にズレながら縮小推移するとした。この1cmについて贄元洋、鈴木敏則から法量の数値推移を時間差に置き換える手法が問題と指摘され、両氏は西笠子第64号窯灰原出土土器や古墳出土土器が法量値に沿った出土状況にないと従来から批判している。後藤は、1cm前後の法量幅は恣意的な数値でなく、まとまりがあること、西笠子第64号窯灰原出土土器は、急斜面への投棄の繰り返しで、遺物の新旧関係が灰原の堆積状況に反映されていないとした。また、両氏が古墳出土蓋坏Hの法量が1cm以上のばらつきがあると指摘したことについて、それは追葬した資料であるためだとした。さらに蓋坏Gについて贄や小森俊寛は、蓋坏Gの単独時期は設定できず蓋坏Hと蓋坏Bと共存するとした主張に答えた。贄は遺構出土遺物の総体をして、遺構の存続時期を示し廃絶までの一括遺物群と捉えているが、住居跡など床面遺物と覆土遺物は時期差があると考えるべきだとした。また、小森の蓋坏H・G・B混在現象については、蓋坏Gの流通量もしくは生産量が不十分であったことから、各蓋坏形式が混在する現象が発生したと答えた。このような問題に関わることとして、この地域で坏身Hとして報告されている形態を後藤は無紐蓋とするが、福岡県牛頸窯では無紐蓋が作られており、湖西窯でも無紐蓋が存在するのか検討を要する。
 第2章「出土須恵器の分類と編年」では、前章を受けて出土須恵器の分類と編年の確立を目指した。須恵器の最も基本となる古墳時代と古代の坏類について、それぞれ器形や製作技術、法量散布図を用い分類を行った。その検証は湖西窯跡群の各窯出土資料の出土状況で確認して前後を考えた。そして坏などの相関関係をまとめて編年図を作成し、時期区分を付与した。さらに大阪府陶邑窯跡群、愛知県猿投窯跡群、飛鳥地域編年・平城宮編年などとの対比関係を明らかにした。
 坏の編年を基軸に、高坏・皿・高盤・ハソウ・フラスコ形長頸瓶・長頸瓶類・平瓶・短頸壺・甕・硯などの時期区分を行い、それらを統合して、それぞれの器形が湖西窯跡群でいつの時期に作られているのかを明らかにした。最後に湖西窯跡群須恵器の年代付与を行ったが、暦年代資料として浜松市伊場遺跡群の木簡や、土器に書かれた年代の判明する墨書文字資料とともに共伴した土器、さらに各地で出土した湖西窯跡群産須恵器に記された暦年資料などから、年代を付与して「(新)湖西編年」を提示した。
 この編年案で疑問、課題もある。たとえば4期第2小期前の合子状坏身D3形式は、飛鳥2並行とするが、前者の口縁立ち上がりが高いが、消費地の中には立ち上がりが蓋受け部の高さしかない例がある。はたして飛鳥2の段階と同時に湖西で坏Hが消滅するのであろうか。また、東日本で多く出土するフラスコ形長頸瓶は、4期第1小期後〜2・3小期の細分が出来ておらず、課題である。鈴木敏則、高橋透などの編年案もあり、どこまで受け入れられていくのか見守りたい。
 この章で、愛知県猿投窯跡群とともに湖西窯跡群の特徴であり、東日本の古墳・横穴墓で必ずといってよいほど出土する、フラスコ形長頸瓶の成立について検討しているが、6世紀末から7世紀前半代の統一新羅あるいは新羅後期様式の長頸壺の写しだとした。このことは、当時の土器様式が朝鮮半島から東海地域という特定地域に影響を与えて成立したとする考え方で、須恵器生産が中央から地方へという従来の考え方に再考を促す重要な指摘である。
 第3章「製造の技術」では、製造技術という須恵器を焼いた窯跡を詳細に検討し、窯構造の分類を行った。窯構造を平面、断面形態から分類し、時期的変遷、さらには湖西窯における地区窯群の消長を明らかにした。湖西の窯は焼成部と煙出部の間に階段部があることが湖西窯の独自性とした。この階段構造は、6世紀末から7世紀初頭に成立するが、湖西窯では瓦の生産を行わないことから、瓦窯からの影響を否定し、蓄熱効果と燃焼効率を高める自生的な技術展開の中で出現したと結論づけた。
 窯の中へ入れる須恵器の置き方、窯場という作業場や住居施設との関係と変遷、粘土や薪の選択などを検討し、今まであまり明確でなかった湖西窯須恵器生産の様相を明らかにしたが、他地域の窯跡群でも応用出来よう。
 第4章「製作技術」で、後藤は、湖西窯跡群の須恵器に底割れのしにくい底部円盤造りが存在していることを確認し、8世紀の坏の内面に糸切り痕が見られることから、底部円柱造りへ変遷していったとし、これは西日本と違う地域差異とした。松本富雄・服部敬史・福田健司らが提唱した底部円柱造りは、尾野善裕や北野博司らの否定的見解があるが、後藤は明解に答えた。しかし、底部円柱造りと認定する資料の少なさは、この技法の存在、あるいは一般的な技法なのかまだ検討する余地があろう。
 続いて、土器製作で口を全て塞いで一旦球形にしてから、再び口縁部を付けるため穴を開ける風船技法が、瓶類など多器種製作の基本技法になっていたと考えた。それが、底部円柱造りとともに湖西窯跡群の須恵器生産が広域流通に対応して、大量生産を行う基盤になったとした。湖西窯の製品は、胎土もさることながら形態・技法も画一的で、このような基本技法が根底にあった可能性が高い。
 また、須恵器に偶然付着したいわゆる自然釉についても論究し、今まで等閑視されていたが、湖西窯跡群では意図的に焼成した自然釉が掛かるようにしたと想定した。この点は評者も同様な見解で、これが東日本の消費地において湖西産須恵器が選択された理由の一つであろう。
 第5章「生産の構造」は、大規模生産で広域流通した湖西窯跡群の生産者を抽出し、生産構造を探ろうとする独自性のある注目すべき研究である。当地域の古代社会の解明にとって重要な史料である、天平12(740)年の正倉院文書『遠江国浜名郡租帳夾名帳』(輸租帳)から、浜名郡は8郷で構成され、現新居町、湖西市、三ヶ日町に相当するとした。また、考古学的な知見に加え文献や地理的な検討から、窯跡が分布する郷は大神郷と新居郷とした。新居郷には11の姓名が記載され、郷内の姓名は敢石部・神直・神人部・和爾神人で6割を占めるという。地形や遺跡の分布から、敢石部姓の人々は、漁労具が出土する旧浜名川沿いの集落で漁労を行い、新居郷丘陵地縁辺部では神直姓等の神(ミワ)氏族等が、窯業生産に関わっているとした。そして窯跡分布数、郷戸の数から窯業生産は、神氏族が担い、中核窯場に神直姓、周辺の散在窯場に神人、神人部、和爾神人姓らが対応したと想定した。さらに窯業生産は、房戸を単位に男女10人前後ほどで操業を行ったと、今まで明らかに出来なかった須恵器生産における、考古学と文献の関わりを論じた重要な論考である。
 この神氏族と窯業との関係は、福岡県牛頸窯跡群、大阪府陶邑窯跡群をはじめ各地で検討されており、湖西窯跡群でもその可能性を指摘したことになる。これら神直・大神君に率いられた集団は、国内屈指の大規模窯跡群を形成し広域流通を担っていた。しかし、神氏との関わりが想定できない窯跡群も存在するが、後藤はミワ氏族など特定氏族に限定されるのではなく、尾張氏や大村直などのような各地の首長層の主導によってそれぞれの地で窯業生産が行われていたとする。
 続いて湖西窯跡群の生産構造を考古学的に分析した。その方法は、窯跡群の時期別消長、丘陵時期別分布図などから、窯場と居住地、須恵器集積場の関係を検討した。河川の合流箇所に完形品の須恵器が多く出土する遺跡を集積場としたが、7世紀後半代から8世紀中頃まで行われており、その前後には少ないとする。集積場は一つではなく、窯場ごとに焼成後の選別を行い出荷する生産形態は、神直が代表する神直−神人−神人部という「人制」によって包括された、6世紀以来の在地首長の支配秩序に依存して展開していたという。湖西窯跡群のミワ氏族は、課役を免ぜられた品部・雑戸ではなく一般公民なので、田租だけでなく調雑物として須恵器の調納負担を負っていたと考えた。しかし、令制期の調雑物は宮都へ送られるが、湖西窯跡群の須恵器は宮都には少なく、東日本の太平洋沿岸諸国から大量に出土することが疑問である。
 湖西窯跡群の所在する浜名郡は、霊亀元(715)年から天平11(739)年の間に敷智郡を分割して設置されたが、大宝令以前は渕評であった。敷智郡の郡家が伊場遺跡群だと考えられている。渕評・敷智郡は、若倭部・大湯坐部・日下部・小長谷部・白髪部の名代や子代、ミワ氏族や敢石部、山部など王民が多く居住しており、王民や王領を核として設置されたとした。湖西窯跡群生産者の須恵器の貢進は、王権の服属的側面だけでなく、「王民共同体」に帰属する証として捉えられると考えた。
 この帰属関係は、宗教的儀礼的慣行を通じて確認されるので、貢納された湖西窯産須恵器は、葬送儀礼の場の古墳や「神祇之祭」の場で、王民共通の族制的結合の証となる祭祀具として用いられたと想定した。のちに第7章で詳述しているように、7世紀から8世紀前半にかけて東日本太平洋沿岸の東国や陸奥国など、王民が多く居住する地域の古墳や祭祀遺跡、屯倉や郡衙所在地域の遺跡から湖西窯産須恵器が出土している。王民共同体共通の宗教的儀礼的場面で用いられる祭祀具の須恵器を供給し続けたのが、王民を中心に設置された渕評・敷智郡下の湖西窯跡群だとした。
 後藤は、湖西窯跡群の製品だけが各地に供給されただけでなく、8世紀前半から中頃にかけて遠江国、駿河国、東国諸国、あるいは陸奥国において、湖西窯特有の階段構造窯および類似する製品から、湖西窯跡群の生産者が関わった窯跡があるとする。また、東海地域、関東地域、陸奥国の各窯跡がどのように出現し、継続・消滅していくかを検討したところ、各地の窯は、それぞれの郡衙や国衙などの官衙や国分寺の整備を契機に開窯されたと考えた。それには浜名郡司などの在地支配層等が代表する共同体成員によって遠隔地就業が行われたとした。しかし、その後、湖西窯跡群から派遣された生産者は、労役期間が終わり帰郷してしまうが、須恵器導入に関わった各地の在地首長層や動員された在地の人々によって継続されたと考えた。このことは、遠隔地生産の拡大のために多くの湖西窯生産者が移動したためではなく、在地生産の隆盛により湖西窯跡群の須恵器に依存する必要がなくなったからであるとした。それが7世紀以来流通していた湖西窯産須恵器が、8世紀後半以降衰退していく原因となったと解釈した。
 東日本では、フラスコ形長頸などの生産を行う地域があるが、後藤のいうように湖西窯からの工人派遣であったのか、在地からの伝習であったのか、すべての器種構成の検討から検証すべきであろう。
 第6章「6世紀の流通構造」では、まず駿河西部域の6世紀から7世紀の古墳出土須恵器を事例として検討した。須恵器の産地同定として胎土識別と器形の特徴から、生産地域を特定する方法をとった。静岡市賤機山古墳は県下最大級の古墳で、100点弱の須恵器が出土している。この須恵器の胎土などから5種類に分類し、湖西窯産須恵器のほか、駿河西域で生産された賤機系須恵器、庵原系須恵器、有度山北麓系須恵器、瀬戸川系須恵器を確定した。さらに駿河西部域の古墳分析から、大津谷系須恵器、大井川西岸系須恵器を加えた6ヵ所の在地生産があったと想定した。
 これら6ヵ所の在地生産と湖西産の須恵器流通について、静岡・清水平野、志太平野の6世紀代の古墳出土須恵器から器種と産地別から見たところ、流通範囲は賤機系・有度山北麓系・瀬戸川系の流通は高草山を挟んで、静岡平野と志太平野を交差するように飛び石状に展開していることが判明した。三者で一個の重複した流通圏を成立させ、東側に庵原系須恵器、西側外縁に大津谷系須恵器が流通圏を形成する構造で、そこに湖西窯産須恵器が入ってくるという。ところが7世紀に至ると湖西産須恵器で覆い尽くされる状況になる。すなわち、駿河西部域では6世紀前半に在地首長層により開窯されて、支配領域内の古墳に供献目的で流通するものの、6世紀中頃以降流通領域を拡大し複数の在地産須恵器が交差して流通するようになる。その場合それぞれの在地生産地で特色ある器種を作る特産品流通を行うという。
 後藤は、古墳祭祀に供献する須恵器を全て在地産須恵器で占めることを第一義とするが、全器種をそろえられない場合は、遠隔地の湖西産須恵器で補うのではなく、隣接する近しい在地窯で補填されたとした。これは古墳祭祀の供献須恵器を族制的結合の証として捉えていたからだとする。
 7世紀になると突如として在地窯が停止することにより、この地域では湖西窯の供給に頼ることになった。後藤はこれは、外部、すなわち推古朝政権による政治的な施策手法と考え、在地窯の停止や湖西窯の生産と流通の拡大は、極めて意図的な目的あるいは役割を担って実施されたと考えた。
 後藤は、第5章でも触れているように、葬送儀礼の場の古墳や「神祇之祭」の場での湖西産須恵器の受け入れは、賤機山古墳のもとで三輪系祭祀を介した倭王権下の「王民共同体」に帰属する新たな証として捉えられるとした。すなわち、新たに登場した地域社会を支える古墳築造階層に倭王権が主導する湖西窯の須恵器供給が、広域に直接行われていったとしたが、これは湖西窯の須恵器流通地域の動向なのか、汎列島的か、神氏族等の関与した窯の在り方なのであろうか。やはり、各地で6・7世紀で様相が変わらない地域もあれば、生産地がなく流通に頼る地域もあり一様ではない。
 第7章「7・8世紀の流通構造」で後藤は、東日本の太平洋沿岸諸国に湖西窯跡群の須恵器が多量に出土することを取り上げ、「いかに在地首長制の生産関係を凌駕して量産化を達成したのか」、そして「どのように在地首長制の領域支配を横断して遠隔地流通を行い得たのか」を考えた。
 湖西窯産の須恵器は、7世紀中頃から東日本の太平洋沿岸諸国へ恒常的に流通していたが、一様に流通したのではない。すでに7世紀前半頃には、沿海・内海沿岸地域に流通し、交通の要衝地である河口付近を拠点に飛び石的な流通状況であったようである。7世紀中頃には、最北端の青森県八戸周辺と、最西端の難波宮跡の両端域で出土していることから、中心の湖西窯から周縁の遠隔地へと同心円状に順次拡大した流通過程をたどるのではなく、一挙に遠隔地へ流通し、それも面的な広がりをもたず、7世紀中頃も拠点的な飛び石的流通状況にあった。それが年代の推移とともに継続して集積したため、出土密度の高い拠点地域と周縁のまばらな出土になったと考えた。
 このような拠点的・飛び石的流通は、陸路で各地を中継するあり方ではなく、沿海地域を経由した舟運による大量輸送を主体としていたと想定した。そのことは伊豆諸島の大島・式根島が海上交通の要衝に位置していること、祭祀遺跡出土の金銀幣帛から国家的律令祭祀が執り行われており、国家による海洋航路の安全確保が行われたことから確認できるという。地域交通の要衝地である河川の河口に点在する遺跡は、陸揚げ拠点でもあり、7世紀前半にはこれらを橋頭堡として、中頃にはさらに河川を遡上して流通網を広げているおり、河川の遡上には舟運を使い内陸奥へ流通させたと想定した。
 東海地方からは大型の準構造船を使い、陸揚げ拠点で舟運の担い手も替え小型の単材刳船で内陸へ運搬したとする。浜名郡の輸租帳には、漁労民の敢石部が居住し、津守部の存在が確認できる。『日本書紀』『日本紀略』には、伊豆大船、伊豆船の記事が見られること、660年に百済救援のため、駿河国に船を造らせること、駿河国西部の庵原氏が白村江の戦いに参戦するなど外洋航行に長けた氏族であったことから、駿河・伊豆両国の海洋民が東海地方から南関東地域への海上輸送を担ったと想定した。陸揚げ拠点の大方が在地首長層の国造支配領域にあったことを強調された。陸揚げ後の流通状況は、個別国造の領域ごとに異なり、必ずしも一律ではなかったと考えているが、このことは出土状況に現れている。
 後藤は、静岡県内および関東各地の湖西窯産須恵器の器種などの出土状況から、静岡県下の墳墓からは、蓋坏・高坏・ハソウ・袋物のフラスコ瓶・長頸瓶・平瓶・短頸壺・甕・大甕など器種が網羅的であるが、器種構成に階層性が見られるという。遠隔地の南関東では墳墓に袋物、集落に蓋坏と器種を分けることによって流通を拡大したという。しかし、静岡・南関東とも袋物の器種が共通して出土するように、葬送儀礼で共通の重要な部分を占めていた。埋葬者自身の出自母体である氏族を横断した通有の葬送儀礼に供するため、共通に湖西窯産須恵器を受給する必要があったと考えた。
 東海道諸国の遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸国に名代・子代の伴造的国造とその部民が点在しているが、その領域に湖西窯産須恵器が流通し、所在地と流通域がほぼ重なりあう。生産を行う湖西窯にも渕評にも名代・子代の王民が多く見られるので、生産を行う湖西窯と分配を受ける東海道諸国の双方に王民を認めることから、
生産・物流・消費にそれぞれの王民や王領の屯倉が関わって遠隔地間流通が行われたとした。
 関東にまで運ばれた湖西窯産須恵器は、陸奥国まで運ばれた。後藤は、『常陸国風土記』、『続日本紀』に常陸国と陸奥国を結ぶ船を使った運送記事や、造船記事などが見られることから、関東以北への舟運は九十九里浜沿岸から鹿島灘沿いの海洋民が担ったと想定した。
 『続日本紀』に記される「陸奥国以北十郡」は、710年から720年代に仙台北方の大崎平野で設置された郡である。この地域には以前から湖西産須恵器が多く出土することで知られている。湖西産須恵器は、青森県まで出土するものの多く出土するのは宮城県下で、南限を阿武隈川、北限を大崎平野の江合川北岸丘陵域とする。
 宮城県下の湖西産須恵器は、多くが横穴墓から出土し、器種はフラスコ瓶・長頸瓶・平瓶などの袋物で、90%を占めるという。また、この地域には湖西窯などの影響を受けた在地産須恵器が生産され、供給されていた。
 古墳と関東系土師器、あるいは文献の検討から、関東以北の多くの移民がいたようである。後藤は、これらの仙台平野と大崎平野の墳墓の湖西産須恵器の出土率をみると、移民たちの出自が反映していると考えた。湖西産須恵器が、移配された王民・王室領の部姓民だけでなく、有力氏族の部姓民、蝦夷系住民に至るまで氏族を横断して流通していることから、倭王権は彼ら部姓民を出自に関わらず、紐帯として彼ら部姓民が共有する新たな古墳祭祀の儀礼作法の導入を図り、居住地で一括して労働力・生産力の基盤に据えたとした。
 720年の蝦夷の「庚申」反乱を境に陸奥国での湖西産須恵器の流通は衰退する。族制的紐帯としての役割を終えた湖西窯は、陸奥国にとどまらず東海・南関東一円の東日本太平洋沿岸諸国全域でその流通の衰退が認められ、遠江国の地方窯へと生産規模を縮小するという。
 終章「生産と流通の展開諸相」では、湖西窯跡群の歴史的位置付けを生産と流通の側面から試みた。前半部は在地首長制の生産関係を整理しているが、後半部ではマックス・ヴェーバーの指摘する「共同体内分業」と「共同体間分業」を大塚久雄の著書をもとに理解し、窯業生産に適用しようとした。
 6世紀前半の駿河西部域諸窯の「共同体内分業」は、駿河西部域流通圏を成立させ、広域の「局地的分業圏」は複数の「共同体内分業」が密接に関連して形成された新たな社会的諸関係の現れとした。一方7世紀の湖西窯の量産化契機は、外部から発せられており、遠隔地の東日本太平洋沿岸諸国への供給を担う生産形態の在り方をして「共同体間分業」の成立と捉えた。
 このような視点で見た時、政権が6世紀末頃より、北部九州域と東国地域に「共同体内分業」から「共同体間分業」への編制移行を行った。それは「共同体内分業」が進展していた北部九州と東国に三輪系祭祀を介在させ、王民共同体へと編制することにより、律令制下への組み入れを可能としたとする。
 一方、上野、筑後、豊前、尾張には、「共同体内分業」が成立しており、この地域の窯跡群には神氏族の主体的な関与はうかがえないようである。湖西窯や駿河西部域では、国衙、国分寺建立頃、「共同体間分業」から新たな「共同体内分業」となる。このような変化は、一郡一窯、あるいは一国一窯として現れたとする。後藤のいう旧「共同体内分業」と新たな「共同体内分業」の違いが不明確であるが、後者を族制的結合原理に基づかなくとも再生産を可能とした世俗的な「共同体内分業」と説明する。また、尾張が「共同体内分業」とするが、尾張は時期によっては「局地的分業圏」を越えているのではないかと評者は考えるが、この点も疑問である。
 本書で後藤は、湖西窯跡群の生産について神氏族等が関わり、「王民共同体」に帰属する証として須恵器を貢納した。また、貢納された須恵器は王民共通の族制的結合の証となる祭祀具として用いられたと考えた。
 特に古墳時代の各地の須恵器生産は、主要在地首長層が生産の主体となっていると想定されているが、後藤は湖西窯跡群の生産・広域流通に倭王権が主導していると考えている。また、生産を行う湖西窯と分配を受ける東海道諸国の双方に王民を認めることから、生産・流通・消費にそれぞれの王民や王領の屯倉が関わって遠隔地流通が行われたとした。
 しかし、関東でも在地産須恵器が畿内、尾張、湖西の影響で生産されるようになるが、評者はやはり在地首長層が主導し生産を行っていると想定している。また、流通の中で、湖西産、在地産が様々な墳墓、住居に編み目のように入り込んでおり、後藤も述べるように陸揚げ後の流通は、個別国造の領域ごとに異なっていよう。後藤のいうような流通を倭王権が意図して行ったのか、それぞれの国造など首長層がそれぞれ行ったのか、その証明は難しい。また関東から東北へ舟運で運ばれたであろうが、それも倭王権が指導して行ったとするならば、屯倉・国造などとの生産・流通機構をどのように構築し、その意図は何か、東日本で倭王権が関与したのは湖西窯跡群だけなのか、終章の説明だけでは不明である。今後の研究で資料に沿った分かり易い説明を期待したい。
 大型古墳が存在しない湖西窯の背景について今まで体系的に検討されてこなかったが、本書は生産・流通を中心に文献、考古学資料を駆使して検討している。古代手工業史としての窯業を考える上でも重要な一書となろう。

遠江湖西窯跡群の研究

著書:後藤建一 著

発行元: 発行:後藤建一 発売:六一書房

出版日:2015/04

価格:¥4,950(税込)

目次

はじめに.
序 章 湖西窯跡群の概観
 第1節 取り巻く環境
 第2節 湖西窯跡群と静岡県内の諸窯
第1章 形式・型式の設定
 第1節 須恵器編年の形成
 第2節 規格性と所作
 第3節 蓋坏の形式変化
第2章 出土須恵器の分類と編年
 第1節 蓋坏類の分類
 第2節 編年
 第3節 年代
第3章 製造の技術
 第1節 窯構造
 第2節 窯場
 第3節 粘土と薪
第4章 製作の技術
 第1節 東海地域窯業の量産化指向
 第2節 須恵器とロクロ技術
 第3節 底部円盤造りの展開
 第4節 風船技法の展開
 第5節 量産化と多器種製作
第5章 生産の構造
 第1節 浜名郡輸租帳の窯業生産者
 第2節 神(ミワ)氏族と窯業生産
 第3節 湖西窯跡群の量産化
 第4節 湖西窯跡群の生産構造
 第5節 官衙整備と遠隔地生産
第6章 6世紀の流通構造
 第1節 駿河西部域諸窯の抽出
 第2節 駿河西部域古墳出土の須恵器流通
 第3節 地域流通へのアプローチ
第7章 7,8世紀の流通構造
 第1節 東日本太平洋沿岸諸国の出土事例
 第2節 東日本太平洋沿岸諸国の流通
 第3節 境界領域の流通
終 章 生産と流通の展開諸相
 第1節 首長制の生産関係
 第2節 窯業生産と社会的分業
あとがき.