書評コーナー

第12回 2014.03.06

祇園大塚山古墳と5世紀という時代
発行元: 六一書房 2013/03 刊行

評者:内山 敏行 (とちぎ未来づくり財団 埋蔵文化財センター)

祇園大塚山古墳と5世紀という時代

著書:上野祥史 国立歴史民俗博物館 編

発行元: 六一書房

出版日:2013/03

価格:¥1,980(税込)

目次

上野祥史 はじめに  
白井久美子 上総地域の古墳からみた祇園大塚山古墳 
古谷 毅 金銅製甲冑出土古墳としての祇園大塚山古墳の意義  
橋本達也 祇園大塚山古墳の金銅装眉庇付冑と古墳時代中期の社会 
高田寛太 祇園大塚山古墳出土の垂飾付耳飾 5、6世紀における東日本地域と朝鮮半島の交渉
上野祥史 祇園大塚山古墳の画文帯仏獣鏡 同型鏡群と古墳時代中期

 千葉県木更津市の祇園大塚山古墳は、特徴的な副葬品を出土した古墳中期の有力な前方後円墳である。金銅板で製作した装飾的な甲冑、銀製垂飾付耳飾、画文帯仏獣鏡--という倭製・朝鮮半島系・中国製遺物を副葬するこの古墳を、5世紀の東アジア、古墳時代中期の日本列島というマクロな視点と、関東地方、上総地域というミクロな視点から多面的に検討した講演会(歴博フォーラム)を、2011年11月に国立歴史民俗博物館が開催した。各講演をまとめた書物が『祇園大塚山古墳と5世紀という時代』である。5世紀の歴史に関心を持つ読者に広く読まれる書物として、手に取りやすい大きさで安価な講演録にまとめたことは意義が深い。専門研究者に向けた刊行物『国立歴史民俗博物館研究報告』に掲載しなかったことに、広い読者層に届けたいという編者の意図が現れている。

 祇園大塚山古墳と出土遺物について、各種の書物で蓄積されてきた情報と現在の考古学的な評価が、本書『祇園大塚山古墳と5世紀という時代』にまとめられている。1891(明治24)年に出土した大塚山古墳の副葬品と出土須恵器・埴輪について、末永雅雄『日本上代の甲冑』(1934)などの戦前の研究から、村井〓[山+品]雄「千葉県木更津市大塚山古墳出土遺物の研究」『MUSEUM』189号(1966)、白井久美子「祇園大塚山古墳の埴輪と須恵器」『古代』83(1987)、千葉県が発行した『千葉県の歴史』資料編考古2(2003)・考古4(2004)、『千葉県史編さん資料 千葉県古墳時代関係資料』(2002)に公開されてきた情報が、一覧できるようになった。

 内容は、以下の各章からなっている。
白井久美子「上総地域の古墳からみた祇園大塚山古墳」・古谷毅「金銅製甲冑出土古墳としての祇園大塚山古墳」・橋本達也「祇園大塚山古墳の金銅装眉庇付冑と古墳時代中期の社会」・高田貫太「祇園大塚山古墳出土の垂飾付耳飾-5、6世紀における東日本地域と朝鮮半島の交渉-」・上野祥史「祇園大塚山古墳の画文帯仏獣鏡-同型鏡群と古墳時代中期-」。 

 「必要な本のすべてを買うことはできないから、選んで買うことになります。自分が関心を持つ特定のテーマに対して、複数の執筆者がそれぞれ異なる意見を述べているような本は、手元に置く価値がある本です」--と、学生時代に先生から言われたことがある。本書にも、上総の中期古墳や、倭の中期古墳副葬品について、執筆者がそれぞれの視点から、異なる意見を述べている。たとえば、祇園大塚山古墳の代表的な副葬品である金銅製甲冑についても、朝鮮半島南部から移入・搬入されたものと考える見解(白井17・21頁)と、倭製品とみる見解(橋本75頁)がある。現在は、後者の意見が有力である。また、銀製の垂飾付耳飾、眉庇付冑と小札甲(こざねよろい、挂甲ともいう)、中国の南製から輸入した踏み返し鏡……このような副葬品は、中央(王権)と地方首長との関係を反映するものとして評価することが多い。これに加えて、地方首長間や、地域社会内部の関係という視点を歴史的評価にどう取り入れてゆくか?--という問題についても、各執筆者それぞれの視点から、異なる意見を示してくれる。

 (耳飾りの製作地と地域間交渉)
 同一人物に添えて埋葬された可能性がある耳飾りと同型鏡・金銅製甲冑に対して、甲冑や鏡からみて近畿中央政権(倭王権)との関係を重視するいわば通説的な見解(上野120・124頁、古谷48・50頁、橋本76・77頁)に対し、別の歴史像として、列島および朝鮮半島の諸地域間での複雑で錯綜した交渉を高田氏は考えている(高田94・95頁、白井21頁)。耳飾り(またはその製作工人)が移動した背景として「地域間交渉」による可能性を高く考える立場で、倭王権との関わりを想定するとしても(高田94・101頁)、それとは別に上総-内陸(上野・信濃)-若狭を結ぶネットワークを考えている(101・104頁)。このような歴史像を補強するためにも、耳飾りの製作地を容易に確定できない研究の現状(87・89頁)を、これから打開してほしいと思う。

 (地域社会の問題と遺物の移動)
 地域間交渉を重視するということは、鏡が地域間・地域内で「再分配」(上野130頁)のように二次的に移動するのか--という未解決の問題とつながってくる。甲冑出土古墳でも、倭王権からの入手以外に二次的な移動があったのか議論されることが少ないが、古谷(41・42頁)は、茨城県舟塚山古墳群を例にあげて、その可能性を示唆している。鏡や甲冑を添えて葬られた各地の古墳被葬者間の関係を考える作業は未着手の点が多い。甲冑組成・埋納方法・墳丘規模・埋葬頭位を検討して、地域内での甲冑出土古墳の意味を追求する古谷氏の検討は貴重である。

 (時期・編年の問題)
 専門家以外には煩雑かもしれないが、考古学者の大きな関心事である編年の問題に触れておく。

 祇園大塚山古墳の副葬品が製作・使用された時期は、やや長い時間幅がある。鏡序列の中で最上位に属する画文帯仏獣鏡が、金銅製眉庇付冑・小札甲と共伴していることから、倭王権による最上位の評価を古墳中期後葉に受けていたことが、二つの指標(鏡と甲冑)で示された--と上野氏は述べている(上野124・130頁)。金銅装甲冑の製作期は中期中葉までさかのぼるので(橋本65・68頁)、上総の小櫃川流域の首長集団が最上位の評価を受けた時期が、中期中葉から中期後葉までの幅を持っていたことがわかる。
 祇園大塚山古墳の埋葬期についても、見解がわかれる。須恵器編年のON46(大野池46号窯)段階に埋葬されたとみる意見(白井7・13・19頁、上野116頁)に対して、橋本氏は、製作時期の異なる2種の小札甲が祇園大塚山古墳にあることから、二つの埋葬施設を想定した(68頁)。須恵器と埴輪から考えた築造時期(ON46段階)よりも、鉄製小札甲の追葬期(TK208〜TK23型式期)が新しいとみている。ここで評者の意見を述べると、祇園大塚山古墳の金銅製小札甲に使った組紐が、鉄製小札甲にも錆着しているので(本書6頁の第3図下)、同じ箱式石棺の中に二つの小札甲があったと考える。橋本氏の編年観に従うと、初葬の箱式石棺の蓋をあけて追葬者と鉄製小札甲を入れたことになろう。これは九州地域でおこなわれるが、古墳中期の関東では一般的でない。
 上総地域の中期大形古墳の築造順序については、鉄鏃の編年による位置づけが、執筆者間で次のように意見が違っている。
内裏塚古墳→姉崎二子塚古墳→祇園大塚山古墳(白井20・21頁)
内裏塚古墳甲石室→祇園大塚山古墳・内裏塚古墳乙石室・姉崎二子塚古墳(橋本73頁)
白井案は祇園大塚山古墳の須恵器を参考にしていることや、橋本案は祇園大塚山古墳に2つの埋葬施設を考えて編年していることに、注意する必要がある。
 このような違いは、遺物編年や時期区分の課題を教えてくれる。大阪府陶邑窯のON46(大野池46号窯)段階を、ON46「型式」とする見解(白井7頁、上野116・119頁)に対しても、独立した型式として認めないでTK208型式新段階に含める意見がある(田辺昭三 1982「初期須恵器について」『考古学論考』平凡社 421頁、山田邦和 2011「須恵器の編年 1 西日本」『古墳時代の考古学』1 同成社 150頁)。本書77頁でも、「全国的な古墳編年としてON46型式段階という時間幅が設定できるのかも確信をもっていない」と橋本氏が述べている。

 近年、5世紀の主要古墳の副葬品を整理・評価する作業が進んでいる(兵庫県雲部車塚古墳、熊本県マロ塚古墳、大阪府七観古墳など)。充実した研究成果報告書の他に、本書のような講演会(の記録)や展示で古墳の内容と評価を紹介することも、大切な仕事であろう。

祇園大塚山古墳と5世紀という時代

著書:上野祥史 国立歴史民俗博物館 編

発行元: 六一書房

出版日:2013/03

価格:¥1,980(税込)

目次

上野祥史 はじめに  
白井久美子 上総地域の古墳からみた祇園大塚山古墳 
古谷 毅 金銅製甲冑出土古墳としての祇園大塚山古墳の意義  
橋本達也 祇園大塚山古墳の金銅装眉庇付冑と古墳時代中期の社会 
高田寛太 祇園大塚山古墳出土の垂飾付耳飾 5、6世紀における東日本地域と朝鮮半島の交渉
上野祥史 祇園大塚山古墳の画文帯仏獣鏡 同型鏡群と古墳時代中期