HOME書評リレー > 書評: エーゲ文明 クレタ島紀行

第35回 (2017,01,31)
関 俊彦 著 『エーゲ文明―クレタ島紀行―』

評者: 矢野文明 (河合塾講師)

書名 エーゲ文明 クレタ島紀行
著者 関 俊彦 著
発行元 六一書房
出版日 2016/11
価格 2,592

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プロローグ
第一章 クレタの春
 母なるエーゲ海
 彩られた容器
第二章 神宿る洞穴
 ゼウスの誕生と幼児期
 イーダ山の洞穴
 プシクロの洞穴
 アルカロコリの洞穴
 スコティノの洞穴
第三章 エーゲ文明
 一文明をはぐくむ海
  1 新石器時代 ――農耕の始まり――
  2 初期青銅器時代 ――青銅の登場――
  3 中期・後期青銅器時代 ――神殿の建設――
  4 青銅器時代の終焉 ――ドーリア人の侵入――
 二各地域の文明
  A キクラデス諸島
  B クレタ島
    建 築
    壁 画
  C ギリシア本土
第四章 クノッソス遺跡とは
 一ミノア文明を支えた交易
 二隆盛期のクノッソス遺跡
  西 翼
  東 翼
第五章 クノッソス遺跡の発掘
 父から受けたもの
 バルカン諸国への旅
 ラグーザを追われる
 シュリーマンを訪ねる
 クノッソス遺跡の発掘
第六章 クレタ島の風情
 中世の街イラクリオン
 クノッソスまでの道
 父と遺跡を歩く
 父への贈り物
 夢での語り
 ダイダロスとイカロス
 父との別れ
 著書『ミノア文字』の出版
第七章 クノッソス遺跡の復元
 エヴァンズの宮殿像
 シュリーマンの大きな夢
エピローグ

 副題に「クレタ島紀行」とあるように、本書は考古学者関俊彦による、エーゲ文明への旅の紀行文である。旅の所感・文物の由来などを、旅するものの旅程に順って綴られてゆく従来の紀行とは趣を異にし、本書には、旅するものである著者はあまり登場しない。話はクレタ島の地勢から気候、ギリシア神話や出土品、そしてそれを出土した遺跡へと飛翔し、読者にエーゲ文明への旅を体験させる、そんな著者の意図が感じられる構成となっている。
 プロローグに続き、「クレタの春」という印象的なタイトルをもつ第1章では、クレタ島の地勢・四季について語られる。驚いたのはエジプトまでの距離だ。「エーゲ海の南に位置するクレタ島は、小アジアへおよそ二〇〇km、エジプトへ約三〇〇km、シリアへ五〇〇kmほどの所にある。」(p30)。地図で直線距離を測ると、さすがにナイルデルタあたりまでは500キロメートルほどはあるが(それでも驚く)、リビア・エジプト国境あたりまでだと300キロ強となる。東京を起点に直線で測れば、300キロメートルだと名古屋の先、500キロメートルだと岡山あたりとなる。当時地中海を縦断する直航ルートがあったとは考えにくいが、それでも、シリア・レバノン海岸を経由しても、エジプトの地は近い場所といえるだろう。クレタ島で栄えた文明の背景を改めて確認することができた。
 次節からは、本書の大きな特色でもある豊富な図版を使った圧巻の土器群が紹介される。エジプトから出土する「クレタの壺」とは、てっきり穀物を獲得するためにエジプトに輸出されたオリーヴ油の容器だろうと思っていたが、図版を見ると、器形のバリエーションや、その美しさから土器そのものが輸出品であることがよく分かる。同様に第三章の「エーゲ文明」でも、豊富な図版をともなったエーゲ文明の歩みを知る良好な概説となっている。第4章「クノッソス遺跡とは」は、日本語によるクノッソス遺跡のガイドブックとなっていて、ここでも豊富な図版が遺跡を見学するものの理解を大いに助けてくれるはずである。
 第5章では、旅は一挙にイギリスに飛ぶ。著者は、クノッソス遺跡の発掘者であるイギリス人アーサー・エヴァンズの生涯をたどる旅に読者を連れ出す。オックスフォード大学で学ぶエヴァンズは、20歳の時バルカン半島を旅している。本書でも指摘しているが、彼が大学を卒業した1875年ヘルツェゴヴィナでは、オスマン帝国に対するキリスト教徒の反乱が起こっており、これを機にイギリスがオスマン帝国への支援を打ち切ると、やがてオスマン帝国はロシアの大規模な軍事介入をうけ戦争に突入する。戦争が勃発した1877年、彼はダルマチア海岸の南端、当時オスマン帝国領だったヘルツェゴヴィナに接する古都ドゥブロヴニク(町自体は19世紀初頭からオーストリア領)を拠点にジャーナリストとして活躍する。二十代半ばのことである。さらに1881年スラヴ人の活動に関与したとしてオーストリア政府から罪を問われ、国外追放の処分を受けている。この年、オーストリアはロシアとの同盟関係を回復しており、オーストリアとイギリスの関係も冷え込んだ時期だった。
 エーゲ海の描写とかわらずドゥブロヴニクの記述も大変美しい。その合間に点描される彼の年譜をたどると、彼もまた歴史の大きなうねりのなかを生きた人であることが分かる。クノッソス遺跡に鍬を入れた1900年、イギリスが始めた南アフリカ戦争のあおりを受け、調査が一時資金難に陥ったこともあった。
 クノッソス発掘に至る彼の生涯を追うなかで、やはり最も印象深いのは、功成し名をとげた老学者ハインリヒ・シュリーマンとの会見だろう。シュリーマンは70代も終わろうとする最晩年、エヴァンズは30代前半、クノッソスの発掘に先立つ15年以上も前のことである。本書読了後、エヴァンズが、王立芸術院があるバーリントン・ハウスで偶然出会った当時14歳だったマイケル・ヴェントリス少年に、クレタ島で発見された線文字Bがまだ未解読であることを告げたことを知った。少年は30代で線文字Bの解読者となった。若い日の邂逅がずっと先に大輪の花を咲かせることがある。エヴァンズもヴェントリスもその情熱の出発点が若い日の出会いにあることがとても興味深い。
 評者は日頃大学入試を目指す受験生に世界史を教えている。職業柄「わかり易い」授業を心がけている。そうした世界史をおもしろいという受験生もいる。しかし本当の歴史の醍醐味・魅力は「わからない」ことにあるのではないか。もし歴史が「わかり易い」ものであるなら、シュリーマンもエヴァンズもそしておそらくはヴェントリスも、生涯にわたる情熱を研究につぎ込むことはなかっただろう。歴史はわからない、だから生涯にわたる情熱も生まれるのだ。歴史のおもしろさは、チョークまみれの教室や、手垢に染まった教科書のなかにはない。だから旅に出よう。著者は誘っているようだ。本書は、まず教室で歴史を少しでもおもしろいと思った若者に読んでほしい。本当の歴史の醍醐味を垣間見ることができるだろう。
 また、著者は一般に流布している「クノッソス宮殿」という用語の使用に慎重である。第7章の「クノッソス遺跡の復元」では、エヴァンズの遺跡保存のあり方について異論があることも紹介している。著者の賛否は書かれていない。日頃文化財の活用で頭を悩ます文化財担当の職員の方々にも一読をおすすめしたい。調査者の遺跡への向かい方・文化財の活用や保存のあり方についてヒントがあるかもしれない。そしてなにより、エーゲ海に花開いた古代文明に興味を持つあらゆる世代の読者にとって本書は最良の入門書となるだろう。
 エーゲ海・トルコ・シリア・エジプト、東地中海地域はごく狭い範囲に隣接している。「アラブの春」に端を発し、泥沼化したシリア内戦によって生まれた難民がエーゲ海を経由してヨーロッパに向かう流れが続いている。われわれもまた歴史のなかを生きている。大学受験を終えたばかりの若者を気安く送り出せる状況にはない。しかし近い将来、この地域に平和が戻ったあかつきには、多くの若者が、洋書のペーパーバックと見まがうおしゃれな装丁の本書を携え、照りつける太陽と深淵をのぞき込むような青空のもと、汗を拭きながら遺跡をめぐる姿を期待したい。新たな出会いがあるかもしれない。線文字Aはまだ未解読のまま残されており、未知の遺跡も多く眠っているだろうから。
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