書評コーナー

第75回 2022.12.15

社会考古学講義 コミュニケーションを分析最小基本単位とする考古学の再編
発行元: 同成社 2022/12 刊行

評者:荒木幸治 (兵庫県赤穂市教育委員会)

社会考古学講義 コミュニケーションを分析最小基本単位とする考古学の再編

著書:溝口 孝司 著

発行元: 同成社

出版日:2022/12

価格:¥10,450(税込)

目次

序章 本書の目的と内容
?. 基礎論
第1章 考古学とは何か? 社会考古学とは何か? 
第2章 コミュニケーション・システム概念を基軸とする社会考古学理論の構築
?. 応用論
第3章 考古資料からコミュニケーション・システムの存在・作動を分析する きれいな土器とそうでもない土器
第4章 考古資料からコミュニケーション・システムの変化を分析する 「歩く」から「見つめる」へ
第5章 考古資料からコミュニケーション・システムの変化と組織システム・社会システムの変化を分析する? モコモコした土器からツルツルで絵が描かれた土器へ
第6章 考古資料からコミュニケーション・システムの変化と組織システム・社会システムの変化を分析する? 世界が大きく複雑になるとき
第7章 考古資料から歴史を復元する 土偶から神道へ
第8章 社会考古学を「生きる」

日本考古学研究のパラダイム転換を促す一書

 著者である溝口孝司氏は、「社会考古学」を標榜し、N.ルーマンなどの社会学の成果を活かした世界標準の考古学を実践している、日本を代表する研究者である。本書は、溝口氏が2020年に九州大学大学院で実施した講義「社会考古学入門」の内容を録音、書き起こしのうえ再編集したものであり、溝口氏の体系的な理論と実践が日本語でまとめられた、初めての著作となっている。それだけでなく、考古学という学問的営為について、本当の意味で理論的に捉えなおした日本語の著作という意味でも、記念碑的な試みと言える。

 溝口氏の著作は、社会学等の専門用語が散りばめられていること、また可能な限り正確に表現しようとする氏の文章特有の難解さもあって、敬遠されがちかもしれない。しかし本書は、日本考古学研究にとって大きなパラダイム転換を促す契機になり得ると確信している。

 まずは、日本考古学における通説とも言える議論について、溝口氏が「思い込み」と論断する例を二つ挙げよう(p.83より抜粋)。

(1)弥生時代の中心地的大型集落の形成は首長層の意図と含意による

(2)定型化した古墳祭式の広域分布は近畿中枢部首長(層)の儀礼創造と管理による

 溝口氏は、こうした事象に関して、個々の判断や意図性に還元して説明できる現象ではないと論じる。

 この含意は二つある。一つは社会の動きを捉えるとき、個々の事象をただ集めただけでは捉えられないという【全体と部分】の問題。そしてもう一つは、「社会考古学」はこうした意図や含意等を問題にするのではなく、それを生み出した背景(=コンテクスト=溝口氏の言うシステムの構造的カップリング)にこそ、解明の焦点を当てているということである。

 考古学論文の結論に「〇〇地域の影響/との交流/との関係性」、「〇〇集落の拡大、分村」、「〇〇古墳と△△古墳の首長層の交流/関係」といった文言がしばしば見られないだろうか? 溝口氏が本書で伝えたいのは、本来考古学が明らかにすべき問題は、このような目に見える事象そのものではなく、こうした事象を生み出した背景たる「システム」もしくは「システム間の関係性(カップリング)」であるということだ。

 もう一つ、重要な指摘を引用しよう。

「ほぼすべての考古資料は〈表出〉の痕跡であり、考古学的にそこにパターンの存在が確認されるということは、一定の表出が反復されたということ、すなわち、それに接続され、それとともに系列を形成した〈情報選択〉、〈理解〉についても、一定のパターンが反復されていた、ということになります。(中略)そして、そのことは、それがコミュニケーション・システムの自己再生産の痕跡であるということを示しています。ということは、〈表出〉の物的痕跡の注意深い分析を基盤として、選択された〈情報〉と選択された〈理解〉の復元的推測へと向かうことができるということです」(p.62)。

 以下、私なりの解釈を交え意訳する。考古資料は人々の社会的活動の結果物である。この資料群の分析結果に何らかのパターンが認められるとすれば、社会活動にパターン化されたコト(コミュニケーション)が行われたことになる。逆に言えば、考古資料にパターンが認められたことをもって、パターン化された社会活動の存在を証明できるし、復元できる足がかりを持っていると溝口氏は主張するのだ(註1)。

 言い換えると溝口氏は、社会とは2人以上の(相互予期に基づく)パターン化したコミュニケーションで構成されるものであり、そこからはパターン化した考古学的痕跡が残されるであろうことから、結果、考古学は社会の存在とその内容を自己言及的に確認できると主張する。

 そもそも考古学は、発掘調査によって発見された【よくわからないモノ】について、ひたすら数を集めて分類し、【それ以外のモノ】と区別することによって【よくわからないモノ】を位置づけるという、学問的に完結性の高い自己言及的特性を持っており、自己言及的なN.ルーマンのシステム理論と親和性が高い。溝口氏の考えは、このシステム理論をはじめとした諸々の社会理論を考古学的に再解釈したもので、社会と考古学との関係性に新たな地平を築いたと言っても過言ではない。

 さらに、こうした問題群が心や組織、政治といったシステムの属性にまで昇華されると、現代社会のシステムとの接点を生じさせることもできる。考古学を科学的専門分野として捉え、その責務を全うすべきとする溝口氏は、これを利用して「古き(構造変動)を知りて新しき(構造変動)を知る」、つまり考古学は「温故知新」によって社会貢献できると訴えるのである。この宣言は、考古学を【科学的専門分野】たらしめるに十分であり、必読に値しよう。

 さて、本書の構成は大きく二つに分かれ、第I部基礎編では、考古学とは何か?という課題(第1章)から始まり、N.ルーマンやA.ギデンズらの社会理論を再解釈した社会考古学理論(第2章)が概説される。次の第II部は応用編として、関西地方の弥生中期の土器にみる時空間的差異の評価(第3章)、北部九州地方の甕棺墓にみる葬送コミュニケーションの質的変化(第4章)、縄文と弥生のコミュニケーション・システムの質的差異(第5章)、弥生後期から古墳前期にいたる社会変化の評価(第6章)といった個別事例について、検討が加えられる。そして第7章が「考古資料から歴史を復元する」と題して宗教コミュニケーション・システムに焦点を当てた、縄文時代から飛鳥時代への質的変化を論じたもので、本書の議論を踏まえた最も「大きな物語」が語られる。第8章は付章的な役割でありつつも、現代に「生きる」社会考古学として、「蛸壺化」する考古学研究に警鐘を鳴らすなど、必要不可欠な反省的な視点が論じられる。

 ところで評者は、考古学と社会学及び哲学をいかにつなぐべきか模索をしていた2000年11月、溝口氏から突如いただいたメールによって氏との交流が始まった。それから22年経ち、現在も溝口氏が目指す地平に共感する一人であるが、【科学的専門分野】としての考古学を目指すという同じ目線をもつからこそ、いくつかの観点に疑問を呈しておきたい。

(1)社会における考古学の位置づけ、ひいては考古学研究の特質を明らかにし得たからには、それから創発される独自の論理構造もしくは方法論的特性が語られてもよかった。評者は考古学独自の論理構造について論じたことがあるが(荒木2012)、本書では【図をして語らしめる】議論が少なく、溝口氏のいう特質を十分に魅せることができているとは言いがたい。パターン化されたコミュニケーションの推定と、そこから表出された考古学的痕跡のパターンとの関係性について、より具体的な議論を読みたかった。

(2)【図をして語らしめる】とは、比較によって誰が見ても蓋然性が高い結果を提示するとことである。システムは外部環境との区別によって存在し得るもので、つまりは「外部」との比較によってのみ認定され得る。考古資料をもってシステムを検討するのであれば、同時期もしくは同地域の「外部」資料との比較によってはじめてその性質が明らかになるものと言えるが、本書では比較の視座が強調されていなかったのが惜しまれる。

(3)本書では、提唱したコミュニケーション理論を解釈部分に多く使用しており、「そうでもありえた/ありえなかった」という視点の複数性を強調するあまり、本書で提示する解釈の蓋然性について論証されていない部分が目立った。特に頁を割いた銅鐸絵画の検討は「そうでもありえた(=そうでなくてもよい)」構造主義で、評価が分かれるのではないか。

(4)「社会貢献できる考古学」を念頭に置いた本書では致し方ないかもしれないが、「なぜ」という問いを意識しすぎているのではないか。歴史学的視点で見たとき、ある事象の原因は、複雑に絡み合っているだけでなく「どうとでも言える」、つまり複数の視点からみてどちらも正解である場面がしばしば存在する。溝口氏のいう「構造的カップリング」はその複数性を担保するものであろうが、それを実際に紐解いていけるのか、困難な道が待っていよう。

(5)溝口氏は、観察された考古資料のパターンから逸脱する例を「ノイズ」ではなく「試行錯誤」と評価し、次段階への準備と位置づける。「ノイズ」つまり「ゆらぎ」からシステムの変化が導かれるN.ルーマンのシステム理論に沿った推論と言えるが、例えば溝口氏のいう系列形成指向墓は、北九州地方と時をほぼ同じくして近畿地方でも開始されていることであり、果たしてそれが北九州内部で試行錯誤を経て生み出されたものなのであろうか。「試行錯誤」をすべて次段階への準備と評価することは、システム論的アプローチの弱点に見える。

(6)考古資料から社会をどこまで読み取れるのか。近年の型式学の精緻化にも関連するが、考古資料にみられる諸属性がどこまで社会を反映しているのか。本書では、甕棺墓にまつわる葬送コミュニケーションの復元や銅鐸絵画の論理構造の復元といった点で、「考古資料から情報をとことん読み切る」という態度が通底している。果たして読み切ることができる(もしくは読み切ってよい)のか、それとも読み切れない(もしくは読み切らない方がよい)のか。この課題解決はただ一つ、同じ類例の母数を増やして確からしさを増すことしかないと考えられる。情報量の多い調査事例が少ないという批判に対しては、本書で明らかにした「パターン」が、例えば充分な情報量のない調査事例でも適用可能かどうかを明らかにするだけでも、ある程度は答えることができよう。

 以上、憧れの存在である溝口氏からの光栄な依頼を受け、浅薄な知識をもとに少しでも論評を試みた。第I部は、冒頭に記したように現在私たちが行っている考古学の「研究成果」や「目的」自体を根底から転換させる潜在力を持っている。第II部も、そうした認識に基づいた実践を見せてくれる多大な成果が提示されており、本書の熟読によって、「社会」をこれまでにない視点で見ることができるようになるであろう。そして、誤読も多いかもしれない私の論評についても、考古学的分析そのものを主題とする論点であり、この書評を読まれた溝口氏から新たな議論が生まれてくるのであれば大変ありがたいし、また楽しみである。

 以上から、本書は社会分析を志す考古学者にとって必読の書であると言える。

 

註1 

 少し拘りのある言い方を加えると、溝口氏はN.ルーマンの「【情報】・【伝達】・【理解】」で知られるコミュニケーションの基礎挙動を「【情報】・【表出】・【理解】のそれぞれの選択」とし、考古資料を「【表出】の選択」による生成物と定めたうえで、「パターン化される」=「【理解】の選択」から「【情報】の選択」へと再帰されていることをもって、自己再生産の根拠と認めている点に、考古資料ならではの視点、及び興味深い再解釈が認められる。

 

参考文献

 荒木幸治 2012「考古学的方法の一規準」『兎原II 森岡秀人さん還暦記念論文集』同刊行会

社会考古学講義 コミュニケーションを分析最小基本単位とする考古学の再編

著書:溝口 孝司 著

発行元: 同成社

出版日:2022/12

価格:¥10,450(税込)

目次

序章 本書の目的と内容
?. 基礎論
第1章 考古学とは何か? 社会考古学とは何か? 
第2章 コミュニケーション・システム概念を基軸とする社会考古学理論の構築
?. 応用論
第3章 考古資料からコミュニケーション・システムの存在・作動を分析する きれいな土器とそうでもない土器
第4章 考古資料からコミュニケーション・システムの変化を分析する 「歩く」から「見つめる」へ
第5章 考古資料からコミュニケーション・システムの変化と組織システム・社会システムの変化を分析する? モコモコした土器からツルツルで絵が描かれた土器へ
第6章 考古資料からコミュニケーション・システムの変化と組織システム・社会システムの変化を分析する? 世界が大きく複雑になるとき
第7章 考古資料から歴史を復元する 土偶から神道へ
第8章 社会考古学を「生きる」