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第68回 (2021,01,13)
小口 雅史 編 『古代東アジア史料論 』

評者: 細井浩志 (活水女子大学国際文化学部)

書名 古代東アジア史料論
著者 小口 雅史 編
発行元 同成社
出版日 2020/06
価格 8,800

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小口雅史 序 解題にかえて 
I 日本古代の典籍
須原祥二『日本書紀』の「重出」記事 皇極紀・斉明紀・天智紀の検討
荊木美行『新撰姓氏録』抄本をめぐる問題 「三例」の記載を中心に
大津 透『令集解』研究の回顧と展望
小倉慈司『延喜式』巻九・一〇の写本系統
石田実洋『左経記』の古写本について
佐藤 信 平安時代の東国仏教と国分寺
II 日本古代の写経・木簡・文書等
藏中しのぶ 「碑文」体の伝の「銘」と檀像 大安寺三碑と空海撰『故僧正勤操大徳影讃并序』 
渡辺晃宏 若狭国の荷札木簡と海産物貢進 
春名宏昭 南家 切経と北家一切経
野尻 忠 奈良国立博物館所蔵『華厳経』巻第七十(紫紙金字)について
磐下 徹 仁寿三年大和国宇陀郡佐山郷長解と「天平元年大税牒」
III 古代東アジア史料
井上 亘 古代教育史三題 出土資料からみた漢代の授業法と教材
榎本淳一 九州国立博物館蔵「晋書列伝巻五十一零巻」について
堀内和宏 郭行節墓誌小考
吉永匡史 阿斯塔那五〇九号墓出土過所関係文書小考
辛嶋静志 「変」、「変相」、「変文」の意味
片山章雄 世界に拡散した第二次・第三次大谷探検隊員橘瑞超の活動・収集品情報   
辻 正博『政事要略』所引「会要」記事小考 

 本書編者の小口雅史氏は、日本古代史を専門とする。その研究領域は広いが、2020年11月に、青森県の芸術・文化の向上に寄与した人・団体を顕彰する「青森県文化賞」を受賞したように、古代・中世の北方史の業績が目立つ。一方では、「日本古代史関係研究文献目録データベース[試行版]」(法政大学国際日本文化研究所)を構築して、年々数が増える日本古代史関係の研究を網羅し情報を提供しており、学界に大きな貢献をしている。
 日本古代史の研究は、史料論が必須である。編纂史料である六国史は古代史像を提供してくれるが、史書を読めば自ずとわかる事実だけで歴史像をつくるのは危険である。かといって中世以降のように、主に古文書に頼るわけにも行かない。法制史料や文学作品、木簡や経巻に考古学的な発掘の成果なども駆使して、文字情報をいかに解読し位置づけるかという史料論が、他の時代以上に重要となる。この史料読解には、日本古代史料のモデルとなった中国史料やイトコ関係にある東アジア他地域の史料との比較が有効であろう。よって、これらを網羅して研究対象とする本書が刊行されたのは、大変喜ばしい。以下、内容を紹介したい。
 最初の小口雅史「序―解題にかえて―」は、本書成立の経緯の他、収録各論考の要約と意義の説明があり便利である。
 I「日本古代の典籍」
 須原祥二「『日本書紀』の「重出」記事―皇極紀・斉明紀・天智紀の検討―」は、書紀編者が原史料を集めて記事を作る際、単一時系列にそってストーリーの統一を図る十分な編集をしていないこと指摘する。そして6世紀以前の原史料は帝紀などに限られ、天武・持統紀は政権中枢で作られた業務日誌的記録が中心となるが、表題の天皇紀は基幹となる記録がなく、一方原史料となる素材だけは増えた。それらを並べた結果、内容が重複する記事が多くなったと見る。
 荊木美行「『新撰姓氏録』抄本をめぐる問題―「三例」の記載を中心に―」は、古代氏族研究の重要史料である『新撰姓氏録』を扱う。現行写本は抄本であり、氏の間の親疎を表す「三例」(「出自○○」「△△同祖○○之後」「○○之後」)の書き換えや表記の混乱を手がかりに、延喜2年系写本と延文5年系写本(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』底本)では、後者が相対的に原本に近いという佐伯説を支持する。
 大津透「『令集解』研究の回顧と展望」は、律令研究の基本である『令集解』研究の到達点と今後のあるべき方向性を示す。まず研究史を第一期(1950〜60年代半ば)・第二期(1960年代後半〜70年代後半)・第三期(1979年くらい〜90年代)・第四期(2000年以降)に区分する。第二期の達成が日本思想大系『律令』であり、第三期以降研究が減少したこと、特に第四期は北宋天聖令の発見により日唐比較研究が盛んになった反面、集解を使っての文学部系での律令研究が衰えたことを指摘する。続いて研究展望として、集解収録の古記・令釈の再評価を取り上げる。古記から当時の社会的実態を読み取る視点の重要性を述べ、作者に擬される大和長岡と秦大麻呂のうち、大麻呂の「問答六巻」と古記の注釈姿勢の違いや長岡の経歴から、長岡説に傾く。同じく作者の比定がわかれる令釈は、複数人による公的性格を持つ令私記だとする。最後に集解引用漢籍に触れる。 
 小倉慈司「『延喜式』巻九・一〇の写本系統」は、延喜式当該巻(神名帳)について、調査による新しい知見も交えて、A古写本、B近世写本の紹介を行う。次に写本系統を考察して、Aの吉田兼倶修補本をもとにした兼倶校訂本を再校訂したのが、文亀三年本(兼倶献上本、Bの祖本)で、兼倶校訂本を対校に使いつつ別系統の写本を底本とするのが卜部兼永本等とする(兼倶・兼永父子の不仲さと関わるのかもしれない)。さらにAの写本群のうちのいくつかは、最古の九条家旧蔵本が成立した11世紀末以前の写本を祖本とする、互いに直系の書承関係のないものと判断する。また『延喜式』五十巻は大部なため、書写態度が巻ごとに異なるので、巻ごとの写本系統研究が必要だとする。
 石田実洋「『左経記』の古写本について」は、研究の少ない源経頼の日記『左経記』の写本の検討である。形状や奥書から、九条本と守屋本そして東京大学史料編纂所に影写本のみ残る谷森本は、もともと藤原兼光が書写した一体の写本あるいはその僚本で、九条家の伝来品であり平安最末期前後の写本とする。なお九条本から、九条道房による九条本『経頼卿記』・勧修寺家本とその転写である鷹司本『経頼記』が作られたと指摘する。
 佐藤信「平安時代の東国仏教と国分寺」は、国分寺を中心とする平安時代の東国仏教の展開を10世紀まで跡づける。武蔵国分寺は9世紀に規模を拡張しており、考古学的な所見からこれを担った地方豪族の経済力・技術力の高さを読み取る。平安前期の東国は災害や対蝦夷戦争の影響で、国分寺や定額寺での法会・写経等の事業が活発になされ、そこに下野薬師寺の存在や天台宗・真言宗の影響も加わって、国分寺を中心に東国の地域社会に仏教文化が浸透していった様子が述べられている。
 II「日本古代の写経・木簡・文書等」
 藏中しのぶ「「碑文」体の伝の「銘」と檀像―大安寺三碑と空海撰『故僧正勤操大徳影讃并序』―」は、『勤操讃』の先蹤を『南天竺婆羅門僧正碑并序』(大安寺三碑の一)とみて(小林崇仁説)、その様式の展開を述べる。「碑文」体は「序」(生前の事績を綴った散文の「伝」)と「銘」(韻文による本文)で構成され、後者には「頌」「像賛」「偈」も用いられた。「碑文」体の「伝」概念の濫觴は天智朝に存在した可能性はあるが、「碑文」体自体は天平宝字6年(762)石川年足墓誌になって登場する。またこの頃墓誌の衰退が始まるのと入れ替わりに、唐文化の影響で大安寺の碑(「碑文」)が作成される。一方鑑真とともに古密教の檀像技法が伝来して大安寺に受け継がれ、この伝統の上に勤操の檀像が大安寺において制作された。この勤操像に付す「序」と「偈」による「讃」(像の画意を述べるもの)の作成は、空海が大安寺の古密教の伝統への回帰を志したものと意味づける。
 渡辺晃宏「若狭国の荷札木簡と海産物貢進」は、海産物貢進(贄)に関する若狭国荷札木簡の実例を紹介して検討する。まず遠敷郡の木簡は、1塥単位記載の032型式(上端のみに切り込み)のもの(I類)と5升単位の小型の011型式(切り込みなし)のもの(II類)に分類され、前者はスシ(発酵食品)を収納した土器の口にひもで括り付け、後者はキタイ(干物)を入れた荷物内に封入したと見る。また後者の荷物の外側には、前者に類した木簡が表示用に取り付けられたと考える。ちなみに1塥のスシの量も5升で、土器の中に後者に類する木簡を入れていたと推測する。次に木簡に見える「五戸」はコザトであり、8世紀の郷里制の里は7世紀にすでに存在した「五戸」(サト=郷=五十戸の下部組織)の制度化ではないかとする。また7世紀の贄の貢進はサト単位から、徐々に郡・国単位へと変わるとする。また贄木簡は丁寧な楷書体、調は行書風に書かれること、郡単位で書式が統一されていること、同じ贄貢進国でも荷札が簡略な志摩国や贄の荷札が未発見の淡路国との違いなどを指摘する。
 春名宏昭「南家一切経と北家一切経」は、南家一切経(藤原豊成所持経、後の図書寮一切経)と北家一切経(聖武天皇夫人・藤原房前女の藤原北夫人発願経、後の元興寺北宅一切経)を検討する。南家経は、天平15年(743)書写開始の大官一切経の底本の一とされ、信頼度が高かった。また豊成は勘経のため五月一日経の一部を借りて充実を図った。南家経は書写の所要時間を考慮すると、父武智麻呂が発願し豊成が継承した事業と考えられる。発願の契機は、天平6年発願の聖武天皇勅願一切経と同じく武智麻呂の右大臣昇進で、その影響で光明皇后は五月一日経を発願したと想像する。また栄原永遠男説とは異なり、豊成左遷の際に本経は一端孝謙天皇に献納され、藤原仲麻呂の乱後に図書寮の管轄に落ち着いたとする。これに対して北家経はよりコンパクトであり、光明皇后の支援の下で五月一日経に依拠して北家独自に完成させたものの、南家に比べての北家の孤立・劣勢を現すと考える。また元興寺経が五月一日経と異なる部分も、栄原説と違い、北家で以前から書写した経巻に由来すると見る。
 野尻忠「奈良国立博物館所蔵『華厳経』巻七十(紫紙金字)について」は、表題史料の原本情報を提供し、正倉院文書に見える天平勝宝3年(751)の紫紙金字『華厳経』との関連を考察する。まず巻末背書(軸木にのり付けされた部分の紙背)から、天平20年〜天平勝宝3年頃、下道主と上馬甘が校生として製作に関わったことを明らかにする。また正倉院文書の検討により、紫紙金字『華厳経』の製作過程を復元する。そして料紙の枚数・同時期に活躍した校生の関与・東大寺での伝来・完成度より、本史料を文書中の紫紙金字『華厳経』そのものではないかと推測する。
 磐下徹「仁寿三年大和国宇陀郡佐山郷長解と「天平元年大税牒」」は、かつて米沢康氏が紹介した佐山郷長解の原本とされる広田本を古典籍展観大入札会で実見した際の知見を基とする考察である。広田本は表記に不審な点があり、仁寿3年(853)当時のものとは考えられない。一方、角田文衞氏紹介の天理本は広田本とは看過できない違いがあり、両者に親子関係は想定できないと指摘する。続いて広田本に捺される宇陀郡印に注目し、江戸時代の印譜なども駆使して他の文書と比較する。同郡印影は本印影と異なるものが多いが、「天平元年大税牒」のそれとは一致する。しかし同牒は内容的に大倭国大税帳の宇陀郡記載部分に当たるはずだが、大倭国印でなく郡印が捺されているのは不可解で、広田本ともども江戸時代末期に見られる模作の一つであることを考証する。また9世紀の実情と一致するとされる『倭名類聚抄』に佐山郷が見えない点より、そもそも佐山郷長解という文書自体が捏造である可能性を示す。
 III「古代東アジア史料」
 井上亘「古代教育史三題―出土資料からみた漢代の授業法と教材―」は、中国の古墓から発掘される思想書の形状などから、古代中国の教育現場を活写する。授業は年長者から順に一人ずつ教える個別指導方式で、テキストは暗記され弟子は冊書は手に捧持して(=横経)開かなかった。これを前提に、『五経正義』の経や古注本文のない単疏本は当時の講義録と言えるとする。また『礼記』学記篇の「佔畢」は、1面10字(8字)を書く6面(8面)の棒(=觚)と簡を指し、経師はこれを手控えに呻り、学生が講義ノートに記録したとする。北大漢簡(武帝後期)は章ごとに簡を改めており、これは初学の1觚に1章を書く書式を冊書に投影したものとする。儒生は、戦国時代以来の詰め書きの冊書を使ったが、貴族や官吏は章句を単位とするこうしたテキストを使うようになる。これは一般教育の普及を反映すると見る。
 榎本淳一「九州国立博物館蔵「晋書列伝巻第五十一零巻」について」は、古写本が少なく貴重な『晋書』の表題史料を検討し、形状観察と中華書局標点本との校異を示す。そして、この史料は脱字・脱文も目立ち、宮廷秘府の蔵書ではないことを指摘する。また「旧鈔巻子本晋書残巻」と本来一続きの同一写本であり、「残巻」をかつての所蔵者である養鸕徹定が手放すに当たって、「残巻」の識語が新たに作成されたと指摘する。
 堀内和宏「郭行節墓誌小考」は、作成者の立場を考察しつつ墓誌を読み解く。東アジアの戦乱状況により、軍功で勲官を得る一般百姓が増え、租庸調を免除されつつ内外役所の使い走り程度の職務しか与えられない者が多数いた。このため行節が例外的に職事官たる県令になったことが墓誌に特筆された。また彼は白村江戦役に参加した可能性があり、こうした軍事経験と南海地域での行政経験から、海運に関する格別の経験と知識を有し、羅唐戦争に従軍したと推測する。また雞林道判官兼知子営総管、そして兵站の輸送を担当する押運使になったことから重要な職務を任せられたと推測する。羅唐戦争で水死(戦死)した行節は、勲官たる上護軍なので従三品職事官と同じ20頃の永業田を世襲でき、子孫も官人としての昇進に有利だったが、王事により外蕃に没落すると田地は6年で収公されてしまう。水難事故による生死不明状態は遺族にとって収公の危機があった。ただし戦死なら収公を逃れるので、墓誌にこの点を特記する必要があったとする。
 吉永匡史「阿斯塔那五〇九号墓出土過所関係文書小考」は、トルファン出土の「唐開元十九年(公元七三一年)唐栄買婢市券」を検討して、過所(=通行証)の発給・使用の具体像を解明する。アスターナ509号墓は張運感夫妻の墓で、その紙衾の材料となった西州都督府などからの払い下げ反故文書の一部が「唐栄市券」である。過所を州では戸籍・計帳を管轄する戸曹司が発給するのは、申請者が旅に出たときの代替の戸徭負担者を確認するためである。「唐栄市券」の二紙目は米禄山が唐栄に婢の失満児を西州の市で売却した際の売買契で、また同墓から出土した「唐開元二十一年唐益謙・薛光沘・康大之請給過所案巻」は、唐益謙(唐栄の同族か)が、福州への旅行にあたり、西州で購入した失満児らの過所を申請したものである。その際に西州都督府に提出された文書(来文)のうちの元赤(=京師で尚書省が唐益謙に発給した過所原本)と市券白(=市券の写し)の一部が貼り継がれているのが、この「唐栄市券」だとする。また継目裏書から、両史料は戸曹司で整理され貼り継がれたものと指摘する。
 辛嶋静志「「変」、「変相」、「変文」の意味」は、意味が不明確な敦煌文書の用語の定義を明快にする。「変」は梵語のcitraの訳語で、漢訳仏典と唐代以前の文献ではデザイン・像・彫像・レリーフ・絵・壁画の意味であり、「変相」は唐代に「変」の意味を明確化にするための造語とする。敦煌文献では絵・絵巻の意味であり、「転変」は絵巻を開いて観衆に見せることである。また「変文」は「変」で絵解きをする人の台詞で、敦煌の図中の虎を連れた行脚僧が背負う巻物は、絵巻物(「変」)であったとする。またインド由来の芸術作品に「変」の語が使われたのは、中国伝統の「図」に比べて色彩鮮やかなので、citra(奇妙な、不思議な)の原意を活かしたのだと推測する。
 片山章雄「世界に拡散した第二次・第三次大谷探検隊員橘瑞超の活動・収集品情報」は、まず筆者が紹介した1910年TheTimes紙掲載の第2次大谷探検隊員橘瑞超・野村栄三郎への取材による記事が、現在問題のある日本語訳で広まっていたので是正する。またこの記事が、当時オーストラリア・ニュージーランドですぐに新聞で拡散していることを、電信網・海底ケーブル網の存在を踏まえて示す。次に第3次探検隊で瑞超の助手となったA・O・ホッブズの、探検参加に関する新聞記事の拡散状況を検出する。以上は新聞記事のアーカイヴズを使う有効性を示すものである。
 辻正博「『政事要略』所引「会要」記事小考」は、明法博士惟宗允亮が11世紀初めに完成させた法制・政務の書『政事要略』に引用される「会要」が、佚書である唐・蘇冕撰『会要』であることを明らかにし、これを取り込んで成立した宋・王溥撰『唐会要』と比較しつつ、字句の校訂を行う。そして国史大系本が『唐会要』により字句を改めている点を批判する。
 渡辺晃宏・小倉慈司「あとがき」には、本書が『古代国家と北方世界』『律令制と日本古代国家』に続く3冊目の、編者の還暦記念論集であるとの献呈の辞と、小口氏の研究についての簡単な解説がある。以上、評者にはなじみの薄いテーマもあったが、誤読を恐れず内容をややくわしく紹介した。
 本書の内容はバラエティに富んでおり、通読すると誠に勉強になる。史料は文字情報であるが、関わった人間のそれぞれの事情を反映した実に不均質な情報であることが、本書を読めばよく理解できよう。文字が意味する内容だけではなく、文字情報が記録された記憶媒体の追求こそが重要であり、それぞれの史料が成立する場と人を踏まえておくことが、文字情報を活かす上で不可欠なのである。ただ本書は「東アジア」と銘打つのだから、古代朝鮮関係の史料論もほしいところである。また欲を言えば、それぞれの史料になじみのない読者にわかりやすいよう、用語やバックグラウンドの説明などに、もう一工夫があったらと思う。「2019年の歴史学界 回顧と展望」(『史学雑誌』129編第5号)で坂上康俊氏は、今後、査読付雑誌に掲載された論文がウエブ上で検索できるようになると、単著・論文集は理系並みに顧みられなくなるのではないかという見通しを示している。これからの論文集が価値を持つとすれば、学術雑誌では実現が難しい何らかの工夫が必要となろう。小口氏は歴史情報の共有という試みでは最先端を走っているだけに、研究成果の公表の在り方について、新たなアイデアも期待したくなる。
 最後となるが、執筆者のうち石田氏・辛嶋氏は、本書刊行前に逝去された。今日ではそれにはまだ早い年齢であった。特に石田氏とは評者も交流があったので未だに信じられない。学界に貢献された両氏には謹んで哀悼の意を表したい。
              (A5版、403ページ、本体8,000円、同成社、2020・6刊)
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